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2004年05月10日
山本夜羽音氏「エロ漫画界の硬派」

この一週間のうちに、一度も書店に行っていないという人は恐らくいても、一度もコンビニに行かなかったという人は、現代の日本には稀だろう。そんな人々が手にした書籍と言えば、コンビニの雑誌コーナーに設けられたたぐいの出版物に限られてくる。コンビニの書籍コーナーの中で、常に安定した売上を示すのは、言うまでもなくコミックと成人向け雑誌だろう。一般的なコミック、或いは(情報週刊誌やグラビア誌を主とした)成人向け雑誌をそれぞれ別個に考えた場合、そこに文化論として議論の余地を見出すのは今時容易だ。だが、サブカルチャー論が大学の講義として取り上げられ、アダルトビデオが市民権を得ている現代日本においても、エロ漫画ほど大衆に消費され、同時に公に言及することを敬遠されるものも珍しい。
今年度5月10日の文芸特別講義には、エロ漫画界の硬派、山本夜羽音先生がいらっしゃった。
私はTAとして、撮影機材を構え、教室の中央で夜羽音先生と対峙した時、私の恥部一切を先生に見透かされるのではないかと言う不安に駆られた。だが、髪を短く刈り込んで口を真一文字に結んだ夜羽音先生は、クールな面持ちと口調で、時に受講生に性癖論を語りかけ、場を和ませつつも、エロ漫画と言うジャンルについての講義を展開された。
前述したコンビニにおけるエロ漫画の販売について、夜羽音先生はやや否定的であった。だが、エロ漫画に関心を抱く読者(主に若年層)が、まずきっかけとして、それら書物に接するであろう場として、コンビニが大きな比率を占めることは明白である。授業のテーマとして、エロ漫画作家の地位を向上し、今後表現のジャンルとして守ってゆく為には、供給者の側から、ある程度社会に配慮した住み分けを成すべきだという、一貫した主張がなされた。
私が最も興味を惹かれたのは、先生がエロ漫画家を志したきっかけとなった、ある原体験についてのエピソードである。青年時代、無軌道な学生闘争の末、留置所へ投獄させられた先生は、独房で一冊のエロ漫画と出会った。思いがけずその漫画に涙したことが、先生が現在の職業を決める上での、大きなきっかけになったと言う。ひとりの青年が、多大なる選択肢の中から、敢えてエロ漫画と言うジャンルを選んだ理由は何か?私はそこに、先生の表現者としての良心を垣間見る。感受性に富んだ人間を、芸術表現に駆りたてた動機が、エロ漫画というジャンルにはある。それは、成人向けの表現作品特有の、表現における実験の許容・懐の深さにあるのではないか。それは即ち、去勢されていない、本来のサブカルチャーの備えるメリットでもある。
私自身、表現の世界に足を踏み入れたきっかけはサブカルチャーであった。日本の現状を見るまでもなく、私の記憶が鮮明になった頃から既に、文学、絵画、音楽、演劇と言った古典芸術の権威の失墜は始まっていた。それは、本来大人社会の中枢を成すべき、メインカルチャーとの精神的断絶・不信となって、常に周囲に付き纏い、私はオカルト・漫画・ゲームといった、サブカルチャーへの傾倒を深めていった。その頃の私は、心の何処かで、やがてはサブカルチャーが、形骸化し硬直したメインカルチャーを打ち負かし、新たなる文化として次代を担うものになると頑なに信じ込もうとしていたように思える。しかし、それは幻想であった。欲求、もしくは感性のみに根差した即物的なものは、如何に一時的に世間で祭り上げられようと、決してメインカルチャーには成り得ぬものだと、今の私は判断する。もっとも私は今でも、サブカルチャーの延長線上から抜け出せないでいるのかも知れないが、メインカルチャーから断絶したサブカルチャーに、もはや立ち戻る気にはなれない。

案外見落とされがちだが、エロ漫画は、文学や古典的な芸術一般に違和感を覚える若者が、実質最も身近に接する文化、芸術表現ではないだろうか?サブカルチャー特有の、個の感性や欲求に根差した居心地の良さは、若者の純粋さ、未熟さを肯定するだろう。しかし、現代がいかにメインカルチャー不在・サブカルチャー全盛の時代といわれようとも、結局エロ媒体はエロ媒体としてしか見なされないのが日本の現状なのである。表現の規制に対する見解について、夜羽音先生は、一段声のトーンを落として言われた。「自分が見たくないだけのものを、大義名分をつけて排除しようとする人がいる。彼等は僕の漫画を真面目に読んでくれたためしがない。そのうちコンビニからもエロ漫画は消えるでしょう」(要約)
エロ漫画が、アダルトビデオやグラビアアイドル程、文化としての研究と保存がなされない理由は、実験的であるが故に、嗜好が余りにも細分化されている事が挙げられる。また、最も即物的な欲求に則った、最も汎用的な紙(の上に描かれた二次元に誇張された表現)としての、流通媒体である故か。先生は、表現に携わる者の先輩として、聴講する日芸の受講生達に言われた。「夜のオカズとして楽しませて、尚且つ考えさせる。並大抵じゃないけど、そんな漫画が理想」
砂漠の砂の様に消費され、忘れ去られてゆくエロ漫画の歴史がある。個人的に、世間一般のエロ漫画に対する見識を一変させてしまうような、記念碑的な作品の登場を、エロ漫画界には切望したい。
【参考URL】
DOXA(独立左派日誌)......山本先生執筆のweb日記。本日の授業に関する感想も綴られています。
連絡網 AMI-Web......山本先生が理事を務めるマンガ・アニメ関連団体の公式サイト。
投稿者: 日時: 2004年05月10日 02:13 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年05月13日
深瀬昌久 ~境目の私写真~
当学部写真学科を卒業され、現在は写真評論家として活躍されている飯沢耕太郎師が「私写真とは何か」というテーマで、実際の作品をスライドで見ながら講義される二回目。取り上げる作家は飯沢師の著書『私写真論』(筑摩書房・刊)より、深瀬昌久氏を選ばれた。
そもそも、私写真とは広義でとらえればあらゆる写真を意味する。しかしそれは、日本の文学作品にはなぜ私小説が多いのか、ということと同じになってしまう。そのため、今回の授業から四人の作家を取り上げ、彼らは何をどのように撮影してきたのかを見ることで、私写真の意味をとらえ直すことを目的としている。

深瀬昌久氏は1934年、北海道中川郡美深町にある深瀬写真館の三代目として誕生。当学部写真学科を1956年に卒業している。この頃、写真界では土門拳氏がリアリズム写真運動を主張し、全体の流れもそれに沿ったものになっていた。その一方、広告写真も広がりを見せる。
1963年、深瀬氏はモデルの鰐部洋子さんと出会い、私写真の撮影を本格的に始める。その最初の作品として、洋子さんを屠殺場で撮影した。その翌年、深瀬氏と洋子さんは結婚し、埼玉の松原団地で生活を始める。この様子を氏は撮影し、さらに1973年には洋子さんを一年間撮影し続けた。この結果として、洋子さんは深瀬氏は自分をモデルとしてのみ必要としているのではないか、といった不安にさいなまれ、1976年、離婚してしまう。

1971年の写真集『遊戯』(中央公論社)、1978年の『洋子』(朝日ソノラマ)に収録されている作品は、深瀬氏の私写真である。このとき、私写真とは撮影者の身の回りにあるもの、その環境を撮影したものであり、その中に撮影者自身も含まれる。自分を含めた自分を構成する環境を撮影したものを私写真と位置づけても良いだろう。それは時に、撮る側と撮られる側、現実と虚構の境目を曖昧にし、あちら側とこちら側を行き来する視点を持つということにも繋がる。あちら側とは死の世界であり、虚構の世界でもある。こちら側は生の世界であり、現実の世界でもある。だが、それらは逆転することもあり、その接点として私写真が存在するのだ。そのことがはっきりと解るものが、性的な場面を撮影した写真である。性とはそのまま生の世界であり、現実である。それを作品にしてしまうことで、現実が同時に虚構にもなってしまう。飯沢師は講義の中、何度もあちら側とこちら側、現実と畏界という言葉を使われる。それが私写真を論じる上で、欠かすことの出来ないキーワードなのだ。
話を深瀬氏に戻そう。1986年、『鴉』(蒼穹社)という作品を発表する。鴉は深瀬氏の分身であり、氏の孤独感を表すモチーフでもあった。さらに、1991年『家族』『父の記憶』(アイピーシー)を発表。実家の深瀬写真館が、家族としても写真館としても崩壊していく過程を撮影したものだ。この中で、現実と虚構の境目は、さらに曖昧になっていく。
1990年から自分と風景を撮影し始め、それを『私景』として発表。1992年にその続編としてニコンサロンで『私景’92』を発表。この中で、深瀬氏は自分をモデルとして撮影していく。水中カメラで風呂場の自分を撮影するなど、およそ今まで考えられなかったことを始める。飯沢師によれば、深瀬氏は写真に取り憑かれ自分を食い破ろうとしたのだろう。
しかし、残念ながら深瀬氏は事故により再起不能となり、現在は療養所で生活をしている。
(2004.05.06)
投稿者: 日時: 2004年05月13日 23:57 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年05月17日
関口シュン氏「浮世絵とMANGA」

その野武士は刀を振りかざし、眼前にいる秀吉に襲いかかろうとする。だが次の瞬間、野武士の身体は、秀吉の鋭い眼力に射竦められ、金縛りにあったように竦み上がってしまった・・。
愉快だったのは、鎧を身に纏い、さも物々しく描かれた秀吉の姿と、彼が野武士を睨みつけた際、両眼から放たれた眼光の描写とのアンバランスな対比だった。秀吉の鋭い睨みが、発光する一条の怪光線となって、野武士の身体を刺し貫いていたのだ。「ドラゴンボールの“カメハメ波”にそっくりだと思いませんか?日本人は既に、浮世絵の中にそのルーツを描いていたのです」
席を埋めた受講生の間から、思わず笑い声が上がった。スクリーンに映し出された浮世絵を指し示しつつ、黒いスーツに身を包んだ関口先生は、長い髪を掻き分けた。
今回の文芸特別講義は、アジアMANGAサミットの実行委員として国際的に活動される漫画家・関口シュン先生が教鞭をとられた。関口先生は、主にストーリー漫画の執筆を中心に活動を展開されているが、それのみに留まらず、童話のイラストや絵本の監修といった、多方面のジャンルにおいてもご活躍されている。

講義は「浮世絵とMANGA」と題され、スライド上映によって、現代日本漫画のルーツを、北斎・広重といった浮世絵の中に求めるという試みがなされた。講義の中で関口先生は、我々日本人にとってはなんの変哲もない日本のコミックが、異なる文化圏に住む人々の目には、摩訶不思議な芸術表現として写っている事実を指摘された。
「“MANGA”はもはや国際語です。アメリカやヨーロッパにおいて、僕らはMANGAアーティストとして認識され、既に独自のスタンスを確立している」
先生の言葉には、漫画はもはや日本だけが独占する文化ではないという自負に加え、同時に何処か悲しげなニュアンスが込められていた。この国際経験豊富な関口先生が、何故、既に途絶えてしまった芸術表現である浮世絵に魅せられたのか、私は推測してみたくなった。
ここ数年、漫画や映画について、表現上の借用・盗作に関する訴訟やトラブルを耳にすることが多くなった。これまで日本では、盗作とインスパイアの境界についての定義が、議論されることなく放置されてきたように思う。特に漫画は、長い間(一部の作品を除き)芸術表現として認識されることすらなかった。
漫画とは単に、一読され捨て去られてゆく娯楽だという認識を、多くの日本人は持っている。(奇しくも我々の先祖にとって、近世まで、浮世絵は貿易品の包み紙程度としての価値しかなかった)加えて現代は、芸術と呼ばれるものが大量生産され、表現する行為が特定の人間にのみに許される時代ではなくなった。それに付随し、漫画に関する著作権やオリジナリティが、論点に据えられる機会が増えてきた。
だが、芸術の表現と発信が誰でも容易にできるようになった反面、我々表現者は、むしろ気を引き締めなくてはならないだろう。表現に携わる者は、今後益々、自己の身体を通じて得た生の体験や、異なる文化に触れた際体感する新鮮な驚きに対して、積極的に感性のアンテナを張り巡らせる必要に迫られてくる。安易な借用・盗作を含め、表現者の血肉を伴わない表現作品は、本来芸術に不可欠な、虚構世界を超越する説得力に欠けている。紙のページを越えブラウン菅を超え、その向こうに広がる人間の生活を、今一度表現者は再認識する必要があるのではないか。
かつて手塚治虫は、漫画だけを読んでいたのでは本物の漫画は描けないと言った。ゴダールは従来の映画的手法を壊し、日本の漫画的なコマ割りを取り入れることで、困窮していた映画界の想像力に喝を入れた。

私は、全ての芸術表現は第一に、表現者が身を削って作り上げた、自己の分身であって欲しいと望んでいる。だが、残念なことに今後、益々盗作訴訟や著作権のトラブルは表面化していくだろう。
「事実は小説より奇なり」という言葉がある。まるで映画を観ているかのように、ブラウン菅を通して “加工された”過激な現実に直面する21世紀、我々表現者は、一体どうやって“生きた現実”を獲得し、それを表現してゆくべきなのか。スクリーンを眺めていた私は、一見荒唐無稽な浮世絵が、緻密な観察とリアリティに根拠付いた上での、ディフォルメであることに気付いた。
「確かに彼らは、ちゃんと写実的な絵も描けたに違いない。だけど僕は、広重の“遊び心”が好きなんです。浮世絵を見ていると、僕は数百年の時を隔てて、先祖から受け継がれてきた表現の遺伝子と、思わず対面する」(要約)
浮世絵は、芸術表現というものに生涯を賭した我々表現者の先輩達の、試行錯誤と創造の喜びの歴史なのだ。その連綿と続く歴史は、未だ完結を見ぬまま、我々の手に受け継がれたのである。私は今回、関口先生の感性が浮世絵に魅せられた根拠は、その辺りにあると考えた。
投稿者: 日時: 2004年05月17日 07:00 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年05月18日
批評にしかできないこと
「批評家ごときに・・いや、私以外の人間に、私の描いた漫画が読み解ける筈はない」
漫画家・日野日出志画伯は前回、文芸特別講義打ち上げの飲み会の席で、座にいる学生や先生達を前に呟いた。私が何気なく視線を向けると、清水教授は一瞬、無表情を装った。しかし、一呼吸置くと、興奮した声の抑揚を抑え切れぬ様子で答えた。「よろしい。私が書きましょう、日野日出志批評を」私はその言葉を耳にした時、何故清水教授がそこまでむきになったのか、完全には理解しかねる部分があった事を告白する。つまり、批評とは、作者の作り上げた世界の解説に過ぎず、テキストに従属するものだという疑念が、心の片隅にあったことは否定できない。
ゴールデンウィーク明けの個人授業、休みボケを未だ引きずる私の前で、清水教授は驚くべきことを言われた。それは、2004年4月27日から5月3日までの僅かな間に、約160枚もの「日野日出志批評」を、彼が書き上げたというものだった。清水教授を、ここまで執筆と言う行為に突き動かす動機は何処にあるのか。文芸創作を志しながらも、その遅筆に日々悩まされる私は、その事実に深い興味を抱いた。
連休明け初回の、清水教授担当マンガ論では、早速日野日出志画伯の作品「蔵六の奇病」が取り上げられた。私は授業の補助中、清水教授が受講生に対して発した言葉のひとつから、思いがけず、私が批評に対して抱いていた疑問に対するヒントを得た。それは以下の通りである。「批評とは、清水正・私自身の創作に他ならない。批評は作者を越えるんだよ」
私はこれまで、批評とは、他者と外部に向けられた研究のベクトルだと思ってきた。だが、どうやらそれは正確ではなかったらしい。むしろ、自己の内部に発端を持つと言えるのではないか。教授は講義の中で言われた。「私も日野氏も、長男として育てられた。故に早い時期から、母親のおっぱいを弟妹達に譲り与えてやらねばならなかった。私にはその葛藤が“蔵六の奇病”の中に見てとれる」母の乳房を奪われてからというもの、画伯は祖母の皺くちゃのおっぱいを吸うことで、教授は己が指をしゃぶる(やがては煙草を咥える)ことで、自らの精神的空白を満たそうとした。だが、それらはあくまで代用品に過ぎず、決して母の乳房と等価値になることはなかったという。

「作家自身さえ知らぬ、作家の内面を発掘する作業が批評だ。それは批評家にしかできないだろう?」講義の中で、清水教授は次々と、幻想漫画「蔵六の奇病」に描き出されたモチーフを、登場人物(それらは作者自身の投影でもある)の性的願望や心理状態の象徴であると指摘していった。教授の大胆な解釈を前に、受講生達は圧倒されていた。私も例外ではなく、一読しただけでは見えてこなかった未知の世界が、清水正と言う人間を通して次第に霞みの如く立ち昇ってきた。教授の説明を受けた受講生達は、批評が創作であることを実感した様子だった。「テキストを一度解体し、創造的な視点を加えて再構築する必要がある。そうすれば、一読しただけではグロテスクなだけだった登場人物が、いつしか抱き締めたくなるほど愛おしくなるかもしれないよ」
果たして、清水教授の批評を読んだ日野日出志画伯が、どんな感想を述べるのか。5月の末に予定されている画伯の次なる講義が、今から待ち遠しい。
投稿者: 日時: 2004年05月18日 02:13 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年05月20日
荒木経惟 ~私写真は記号で物を語る~

前回に続き、飯沢耕太郎師による私写真論の講義である。今回もまた、飯沢師の著書『私写真論』(筑摩書房・刊)より荒木経惟氏を取り上げた。
荒木氏は1940年生まれ、千葉大学工学部を卒業し、電通へ入社。そこで写真家として活動を始め、1964年、雑誌『太陽』が創設した写真家新人賞の太陽賞を『さっちん』(自費出版)で受賞する。その後、本格的に写真家としての活動を始める。

1971年、私写真の分岐点とも言われる作品『センチメンタルな旅』(自費出版)を発表。この作品は自身の新婚旅行を撮影した作品で、妻・陽子とのプライベート写真を収録したものだ。新婚旅行なので、当然、性的な場面も含んでいる。そして、現実と虚構の境目を映し出してもいる。しかし、この作品は単なる記録写真ではなく、一つの作品として確立している。それは荒木氏による編集によって、写真が物語を帯びているからだ。収録の順番と、撮影順が逆になっていて、生→死→生と全体が構成されている。そして、性的な場面は死から生へと呼び戻すための条件となっている。つまり、事実が編集されているのである。これにより、作品は物語を帯びるのだ。実際、荒木氏の作品には、物語、小説とつくものが多い。
そして、1989年、『東京物語』(平凡社)と『センチメンタルな旅 冬の旅』(新潮社)を発表。『センチメンタルな旅 冬の旅』では妻・陽子の入院から死ぬまでの写真が納められている。ここでも荒木氏は事実を編集し、病状の悪化を「黒猫を抱く少女」の看板で暗示する。そして、写真に言葉が添えられ、日付が入っていることで、いっそう物語性が増すのだ。

そして荒木氏の特徴は、本人が写真の被写体として登場し、それが記号となっていることだ。荒木氏の顔はぱっと見て解る顔をしている。それを利用し、荒木氏は自分を他人に撮影させた写真を自分の写真集として発表している。これは自分を記号とすることで可能なことであり、そうでなければ自分の写真集にはなり得ない。ここにおいて、私写真とは開かれたものであると位置づけられる。そして、荒木氏という記号が、場を明るくされる記号=祝祭・ハレの記号だからこそ可能なのだ。
飯沢師は、荒木氏は現在の「まねへもん」であるという。これは浮世絵師の鈴木春信が春画を描き、その中に『風流艶色まねへもん』というものがある。この作品は、豆男が睦み合う男女のそばで騒いでいるものだ。この豆男が荒木氏なのだという。
投稿者: 日時: 2004年05月20日 00:01 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年05月21日
このサイトについて
はじめに
日本大学芸術学部は私大芸術学部の老舗であり、これまでに多くの優秀な人材を文化・芸術の世界を中心に輩出してきました。芸術学部には多くのユニークな授業がありますが、文芸学科の他学科公開授業は同学部内の学生の間で特に人気があります。このページはそういった日本大学芸術学部文芸学科における授業の雰囲気を少しでも外部の方々にお伝えすることができれば、という思いで作られています。
このページ内における記事について
このページ内の記事は、日本大学大学院芸術学研究科に所属する大学院生TA(ティーチング・アシスタント、つまり授業の補助にあたっている学生)のボランティアによって執筆されています。
これまでに、このプロジェクトに参加してくれたメンバーは以下になります。
菊池 明美 2004年6月~現在 (投稿記事1)[2004年6月19日現在]
松浦 千春 2004年5月~現在 (投稿記事2)[2004年6月1日現在]
栗原 隆浩 2004年4月~現在 (投稿記事4)[2004年5月21日現在]
松下 成矢 2003月9月 (投稿記事1)
阿久澤 騰 2003年4~6月 (投稿記事16)
最後に
大学院生に限らず、授業の様子をレポートしてくれるという学部生も募集しています。また、気になった記事には感想やコメントなどいただけると、とても励みになりますので、よろしくお願いいたします。
投稿者: 日時: 2004年05月21日 16:46 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年05月24日
日野日出志氏 「創作は出産である」

2004年5月24日、日本が誇る幻想漫画家・日野日出志画伯は、ふたたび日芸の土を踏まれた。今回の講義は「剣とペン・マンガにかけた青春とボロノート一冊の人生」と題され、少年期から現在に至るまでの、人間・日野日出志の実像に照明が当てられた。
講義冒頭、日出志画伯はおもむろに、受講生達に一冊の古いノートを提示された。愛しそうにそのノートをめくる画伯の眼差しは柔らかかった。「これは、私の想いがこもったボロノート・・作品の総目録です」
日出志画伯が描いた幻想漫画の中に、画伯自身の臓器・性器への深い憧憬を読み取るのは、私だけではあるまい。私の目にはそのノートが、透視図越しに見た画伯の内蔵にさえ見えた。何故なら私自身、普段から常に雑記帳を持ち歩いている。それは、小説の構想を蓄えておく為の創作ノートであり、結果として、普段は抑圧された私の内面を露呈した、懺悔帳ともいえる代物になっている。そんなノートを他者に開示し、恍惚とも言える表情を見せる画伯はやはり、臓器や陰部を始めとする、自己の肉体に対して、深い憧憬があるのだろうか。
「これが私の人生です。私が死んで、後にはこのボロノートが一冊残される」画伯は目を細めた。間もなく、私は或る事実に思い至った。人間の内蔵器官や生殖器が、最終的に体外に放出せんとする物は、排泄物と胎児である。排泄を究極の形にまで突き詰めて行くことで、出産に辿り着くと定義するのは横暴だろうか。
作家にとって創作とは、己が魂の一部を体外に放出し、具体化させる行為に他ならない。人間に限らず生きとし生けるものは、自己の内部のみでは存続維持が利かなくなったリビドーを、体外に排出するシステムを備えている。芸術を構築してゆく過程に生じる快楽と苦痛、そして最終的に獲得する安堵と陶酔は、出産に伴うそれと、類似性を挙げればきりが無い。
日出志画伯は幼い頃から、宮本武蔵の時代劇や高倉健の任侠映画への熱中に始め、自身も剣道・抜刀道を経験され、刀剣に対する思い入れが強かったという。画伯が初めて、強く「男」を意識したのは、映画・武蔵のワンシーン・主人公武蔵が、携えた剣に、自己の命運と生涯を託すことを誓う場面を見た時であった。画伯はこの瞬間、(単なる泌尿器ではなく)性器としてのペニスを自覚し、男性である自己を強く意識し始めたといえる。
講義終了後、打ち上げの酒宴の席で画伯は、童貞を失ったのが二十三歳の時、代表作「原色の孤島」の執筆途中である事を告白された。作者の身に起きた一大事件が、その分身である作品の中に反映されないとは考えにくい。場は盛り上がった。
考えてみれば、表現者の童貞喪失は、表現作品にどのような影を落とすのか、特に、画伯の作品に芸術の原体験を有する私としては、興味深い問題であった。
女性経験は、男性表現者から、表現に対する渇望を奪ってしまうのだろうか。一概には言えないが、そうとは限らない。青年は初体験の場で、制御ままならぬ自己の肉体を持て余すことが多々ある。今まで観念の中でのみ捉えていた「性」の現実と直面し、肉体という未知の存在との戦いに敗北する可能性の方が高い。その敗北によって、それまで信じて疑わなかった、男=自己という信念が、否応無しに揺り動かされる。その反動で、男性表現者は、「男」を理解することに対する渇望を、更に増してゆくとも考えられる。
表現者にとって、自己は永遠なる未知の深淵である。その中でも、本人の意思とは決定的な隔たりを持つ器官である臓器や陰部に対する憧憬は消し難い。童貞喪失は、芸術家にとって、それまでの価値観を崩壊させるカタストロフィーである反面、一生ものの原体験を身体に刻み付ける、一大転機にもなり得る。
画伯は我々を尻目に、それきり知らん振りを決め込んだ。その場で我々は、目を皿のようにして、幻想漫画「原色の孤島」を眺めるより他なかった。
これは私の推論に過ぎないが、童貞喪失を経て、画伯は肉体的に性を所有する事は出来たが、精神的には未だ所有を得ない、精神的童貞のままだったのではないか。作品中には、登場人物の身体の一部が剥がれ落ちる(或いは切断される)シーンが幾つか登場する。それはやはり、性の結合の場で、自己の「男」としての役割を、完全に全うすることが出来なかったことで味わった、不安と焦燥、結合への裏返しの慕情であると推測される。
「表現者はナルシストなのかもしれない。私の場合、自分の記憶に焼きついた原体験・原風景をディフォルメすることで、漫画を描いている。自己陶酔しているんです」
画伯の作品中に表わされる臓器は、自己の本質を追究する余り、引きずり出した、画伯の内蔵そのものなのである。
授業の終わり、清水正教授の書かれた「日野日出志評論」についても、画伯は言及された。「読みました・・感動したが、ゾッとした。清水先生は作品と格闘している批評家。彼はもしかすると、僕の知らない僕を知っているのかもしれない」(要約)
私は、画伯自身は無自覚に創作行為に没頭していたからこそ、あの無垢でストレートな作品群が産み出されたのだと考える。世間に漫画界のテロリストと揶揄されようとも、表現にかける彼の奔放さの本質は、限りない無垢にある。画伯はひたむきに自己を掘り下げ、その成果を世間に発信し続けて来た。
「私にとって、子供は最高の批評家です。子供達は私の本を、大人の様に単なるホラー漫画としては読んでくれない。熟読し、鋭く指摘し、時には抱き締めたまま眠ってくれる。それでいい。否、それがいい」
かつて、画伯の発したメッセージを受け取った小学生の私は、十五年の時を隔て、日芸という場所で彼と再会を果たしたのである。画伯の漫画に描かれた原色の臓器は、表現者の道に足を踏み入れてしまった、紛れもない私自身の臓物でもあった。
投稿者: 日時: 2004年05月24日 05:14 | パーマリンク | コメント (0) | トラックバック (0)
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