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2004年05月17日

関口シュン氏「浮世絵とMANGA」

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 その野武士は刀を振りかざし、眼前にいる秀吉に襲いかかろうとする。だが次の瞬間、野武士の身体は、秀吉の鋭い眼力に射竦められ、金縛りにあったように竦み上がってしまった・・。

 愉快だったのは、鎧を身に纏い、さも物々しく描かれた秀吉の姿と、彼が野武士を睨みつけた際、両眼から放たれた眼光の描写とのアンバランスな対比だった。秀吉の鋭い睨みが、発光する一条の怪光線となって、野武士の身体を刺し貫いていたのだ。「ドラゴンボールの“カメハメ波”にそっくりだと思いませんか?日本人は既に、浮世絵の中にそのルーツを描いていたのです」

 席を埋めた受講生の間から、思わず笑い声が上がった。スクリーンに映し出された浮世絵を指し示しつつ、黒いスーツに身を包んだ関口先生は、長い髪を掻き分けた。
 
 

今回の文芸特別講義は、アジアMANGAサミットの実行委員として国際的に活動される漫画家・関口シュン先生が教鞭をとられた。関口先生は、主にストーリー漫画の執筆を中心に活動を展開されているが、それのみに留まらず、童話のイラストや絵本の監修といった、多方面のジャンルにおいてもご活躍されている。
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 講義は「浮世絵とMANGA」と題され、スライド上映によって、現代日本漫画のルーツを、北斎・広重といった浮世絵の中に求めるという試みがなされた。講義の中で関口先生は、我々日本人にとってはなんの変哲もない日本のコミックが、異なる文化圏に住む人々の目には、摩訶不思議な芸術表現として写っている事実を指摘された。

「“MANGA”はもはや国際語です。アメリカやヨーロッパにおいて、僕らはMANGAアーティストとして認識され、既に独自のスタンスを確立している」

 先生の言葉には、漫画はもはや日本だけが独占する文化ではないという自負に加え、同時に何処か悲しげなニュアンスが込められていた。この国際経験豊富な関口先生が、何故、既に途絶えてしまった芸術表現である浮世絵に魅せられたのか、私は推測してみたくなった。
 
 ここ数年、漫画や映画について、表現上の借用・盗作に関する訴訟やトラブルを耳にすることが多くなった。これまで日本では、盗作とインスパイアの境界についての定義が、議論されることなく放置されてきたように思う。特に漫画は、長い間(一部の作品を除き)芸術表現として認識されることすらなかった。

 漫画とは単に、一読され捨て去られてゆく娯楽だという認識を、多くの日本人は持っている。(奇しくも我々の先祖にとって、近世まで、浮世絵は貿易品の包み紙程度としての価値しかなかった)加えて現代は、芸術と呼ばれるものが大量生産され、表現する行為が特定の人間にのみに許される時代ではなくなった。それに付随し、漫画に関する著作権やオリジナリティが、論点に据えられる機会が増えてきた。

 だが、芸術の表現と発信が誰でも容易にできるようになった反面、我々表現者は、むしろ気を引き締めなくてはならないだろう。表現に携わる者は、今後益々、自己の身体を通じて得た生の体験や、異なる文化に触れた際体感する新鮮な驚きに対して、積極的に感性のアンテナを張り巡らせる必要に迫られてくる。安易な借用・盗作を含め、表現者の血肉を伴わない表現作品は、本来芸術に不可欠な、虚構世界を超越する説得力に欠けている。紙のページを越えブラウン菅を超え、その向こうに広がる人間の生活を、今一度表現者は再認識する必要があるのではないか。
 
 かつて手塚治虫は、漫画だけを読んでいたのでは本物の漫画は描けないと言った。ゴダールは従来の映画的手法を壊し、日本の漫画的なコマ割りを取り入れることで、困窮していた映画界の想像力に喝を入れた。
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 私は、全ての芸術表現は第一に、表現者が身を削って作り上げた、自己の分身であって欲しいと望んでいる。だが、残念なことに今後、益々盗作訴訟や著作権のトラブルは表面化していくだろう。

「事実は小説より奇なり」という言葉がある。まるで映画を観ているかのように、ブラウン菅を通して “加工された”過激な現実に直面する21世紀、我々表現者は、一体どうやって“生きた現実”を獲得し、それを表現してゆくべきなのか。スクリーンを眺めていた私は、一見荒唐無稽な浮世絵が、緻密な観察とリアリティに根拠付いた上での、ディフォルメであることに気付いた。

「確かに彼らは、ちゃんと写実的な絵も描けたに違いない。だけど僕は、広重の“遊び心”が好きなんです。浮世絵を見ていると、僕は数百年の時を隔てて、先祖から受け継がれてきた表現の遺伝子と、思わず対面する」(要約)

 浮世絵は、芸術表現というものに生涯を賭した我々表現者の先輩達の、試行錯誤と創造の喜びの歴史なのだ。その連綿と続く歴史は、未だ完結を見ぬまま、我々の手に受け継がれたのである。私は今回、関口先生の感性が浮世絵に魅せられた根拠は、その辺りにあると考えた。
 

【栗原隆浩】

日時: 2004年05月17日 07:00 | パーマリンク |TOPページへ   ▲画面上へ

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