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2004年07月02日

森山大道 ~原記憶の不安~

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今回は日本を代表する写真家の一人、森山大道である。本日は、飯沢先生による講義。次回は作品のスライド上映を行う。

 本名は「ひろみち」と読むらしい。少し変わった名前は、禅の「大道無門」という文句に由来する。森山の生い立ちもまた、アーティストに相応しく少々異彩を放っている。

1938年、大阪府池田町生まれ。父親の仕事の都合により、中学を卒業するまで各地を点々とする不安定な生活が続いた。少年時代の居場所が定まらない不安感、宙づりの感覚は、彼の感受性にしっかり刻み込まれ、のちに写真家森山大道の核となっていく。もう一つ、森山の作風を決定づけたと思われる要因がある。双子の兄の存在(現実には不在)である。大道には一道という双子の兄がいたのだが、生まれてすぐ亡くなったという。飯沢先生によると、双子の片割れの写真家というのは案外多いそうだ。例えば土田ヒロミ。彼は妻の横に双子の兄を置き、兄の妻の横に自分を置くという、双子ならではのユニークな作品を発表したことで知られている。土田の作品には、もう一人の自分が実在することの自己存在の揺らぎや、その不安を茶化すユーモアが感じられる。それは双子特有のメンタリティというものかもしれない。「森山の作品にも、失われた分身を求めているような感じがあります。ホルマリン漬けの双子の胎児を撮影した写真は有名ですね」と飯沢先生。死に別れた片割れの影は、生き残った者の内部に少なからぬ影響を及ぼしているのだろうか。

過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい京都の中学を卒業し、高校に入るがまもなく中退、大阪市立工芸高校に進学しグラフィックデザインを習得する。カレンダーのデザインなどを手がけ、十七歳で早々とグラフィックデザイナーとして自活。二十二歳で、関西の写真界の大家である岩宮武二スタジオの門を叩く。グラフィックデザインという机上の仕事に飽き足らなくなっていた大森は、ここで写真の魅力に取り憑かれることになる。

当時、同スタジオには井上青龍がいた。井上といえば、ドヤ街に住む日雇い労働者の日常を撮った写真で頭角を現した気骨の写真家である。森山はおおいに影響を受け、自分も路上に出てスナップを撮り始める。さらに一冊の写真集との出逢いが、彼の方法論を完成に導いていく。ウィリアム・クラインの『ニューヨーク』である。

『ニューヨーク』は、「アレ」「ブレ」「ボケ」という反写真的手法の集大成というべき作品であった。ページを繰れども何が映っているのか判然としない写真ばかり。動く子供や出会い頭の人を反射的に撮る。視覚のおもむくままに手当たり次第に写し取る。そんなふうにしてできた写真集は、ニューヨークという街の混沌とダイナミズムを見事に体現していた。クラインはその後『ローマ』『モスクワ』『東京』と都市の写真集をたてつづけに発表する。「都市四部作」と呼ばれるそれらは、当時の知識人やアーティストに多大な影響を与え、「写真による都市論」というジャンルを形成していく。森山はクラインの反写真的手法を踏襲しつつ、独自の方法を模索していた。


大阪を出る決意を固め、1961年に上京。「VIVO」という6人の若手前衛写真家が結成したグループのアシスタントにしてもらうつもりだったが、グループはすでに解散していた。ちなみに「VIVO」はエスペラント語で「生命」の意。当時の写真界を支配していた「事実をそのまま伝える写真」(ドキュメンタリー、報道写真など)に異議を唱え、撮る側の主観的視点を重視し、抽象的な写真のあり方を主張した。革新派のグループであった。森山は、「VIVO」結成メンバーの一人である細江英公のスタジオで職を得、三年間助手を勤めた。細江はこのとき三島由紀夫の『薔薇刑』という写真集を製作中で、暗室で仕上がりを細かく操作する技巧的な写真が多かった。森山はここで暗室のテクニックを磨く。

1965年に独立するが、なかなか仕事が来ない。『カメラ毎日』という雑誌に自作を持ち込んだところ、凄腕編集者としてその名を轟かせていた山岸章二の目にとまり、8月号に9ページにわたって掲載される。「ヨコスカ」と題されたそのシリーズは2年後「にっぽん劇場」シリーズに衣替えし、1968年『にっぽん劇場写真帖』(室町書房)として出版される。この写真集が、写真家森山大道の本格的なデビューを飾った。

ラジカル路線を突き進む森山は、中平卓馬や高梨豊らと1968年同人誌『プロヴォーグ』に参加する。彼らはこれまでの写真表現のあり方を根底から覆すような、反写真的手法を駆使した作品を発表した。

森山の作風について、飯沢先生は「普段忘れている記憶のなかにあるものを刺激する。たとえば小さい頃、お母さんがなかなか家に帰ってこなくて不安でしようがなくなった感じ、よるべなさといいますか、誰もが覚えがあるでしょう。彼の写真を見るとその感覚が引き起こされるんです。我々の原記憶に潜んでいる不安や恐怖といったものをね」ブレやボケではっきりと映っていないため、パッと見ただけでは何が写っているのか判らない。判らないということは、ただでさえ不安をかき立て、恐怖を生む。「意味づけを拒否しているんです。普通の写真は綺麗な花とかかわいい動物とか、意味づけがあって写している。だから見る方も安心して見られる。でも意味づけを拒否した写真はどう見ていいのかわからないから不安になってしまうんです。」

このような作風は、独自の方法論に支えられている。まず、ノーファインダー撮影。ファインダーを覗かずに、反射的にシャッターだけ押して撮影する方法である。ファインダーでピントを合わせたりしていないのだから、当然写真にはブレやボケが頻繁に起こる。「目で見た世界は、撮ろうという時点で既に見た人によって秩序づけられているわけです。ノーファインダーは秩序づけられた世界に対する反抗の表れでもあるし、そうやって写ったものは写真家のコントロールを超えているわけでしょう。それをねらっているんです。こう見えるはずだという現実を超えた世界が写真に現れることがあるんです」

もう一つは、複写という、街のポスターや看板、道に落ちた新聞の誌面写真や雑誌のグラビア記事などをそのまま写す方法である。写真を写真に撮る。それはすなわち、他人が創ったイメージの世界と現実の世界を等価と見なす行為だ。我々の生きている世界では既に、現実と映像世界(幻影)の区別が曖昧になっている。森山はそんな状況を、複写という方法で表現しているといえる。『アサヒカメラ』(1969)誌上で連載された「アクシデント」というシリーズに登場して以来、現在に至るまで、複写は森山写真のトレードマークといわれるほど頻繁に取り入れられている。

moriyama2.jpg かくして1972年『写真よさようなら』(写真評論社)が出版される。これはラジカルの極みというか、100%実験的な写真集である。写真表現の限界まで行きたい、という意欲と、それを実際にやり遂げた行動力は賞賛に値する。しかし当時は一部を除いてまったく評価されなかった。後に森山本人も「徒労感が残った」とこぼしている。時代に先走りすぎたのか、試みは空回りしてしまったようだ。しかもこの時点でやるべき事はすべてやってしまった、行き着くところまで行ってしまったという壁にぶち当たり、先に進めなくなってしまった。

森山はスランプに陥った。睡眠薬を常用し、極端に痩せ、家にこもりがちになった。そんな状態が十年近く続いた。方法論的に行き詰まり、カメラを手にすることもなくなった。。

袋小路から脱するきっかけは、1981年に刊行された『写真時代』(白夜書房)という雑誌であった。創刊号で、森山のインタビュー企画が組まれた。彼が久々に手にしたカメラで写し撮ったのは、シャクヤクの花であった。タイトルは「光と影」。そこにある光と影を記憶する、写真は「光の化石」だ。何気ない花をありのままに写すという行為が、森山に再び写真の力を信じさせたのである。

『光と影』(冬樹社)は翌年写真集として出版された。そして森山は都市の路上に帰ってきた。1993年から1997年にかけてhystericから出版された三冊の写真集(『DAIDO hysteric No..4』『DAIDO hysteric No.6』『OSAKA DAIDO hysteric No.8』)では、一冊ごとに被写体が物から人へ、人から都市へと移行していく。特に『OSAKA DAIDO hysteric No.8』は大阪という都市の猥雑な空気とエネルギーを切り取った力作である。

眼から眼へ
この路線は引き継がれ、2002年『新宿』(月曜社)が発表される。ページ数にして600頁、掲載写真は500枚にもなる。この圧倒的な量感、膨大な枚数は、新宿という都市の多面性を伝えるために必要だったという。「たしかに都市写真というのは、ある程度枚数が必要です。一枚の写真でその土地のすべてを表現することは出来ませんから」と飯沢先生は言うが、「質より量といっているのではなく、被写体の性質によるものです」とも。

ごく最近の活動としては、2003年10月にパリで開催された個展がある。カルティエ現代美術財団によって開かれた「DAIDO MORIYAMA」展を満喫した飯沢先生は、最近の著作『眼から眼へ』(みすず書房)の冒頭で、その感想を詳しく述べている。

「ライブ会場に巻き込まれたようなショックでした。まだまだ彼は現役だと実感させられましたね」

【寄稿者 菊地】

投稿者: 日時: 2004年07月02日 10:23 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年07月08日

森山大道その2 ~写真とは光の化石である~

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前回に引き続き、写真家森山大道の仕事を紹介する。飯沢先生が持参して来られたビデオ「NHK 新日曜美術館 写真とは光と時の化石である/写真家・森山大道」(2003年3月9日放映)を観た。この授業は受講者が多く、教室は満席状態である。写真に詳しい学生もそうでない学生も、皆熱心にビデオを観ていた。

 森山を追いかけたドキュメンタリー作品は、ほかに「≒森山大道」(藤井健次郎監督2002年 DVD)がある。こちらも興味深い。 

 本題に入る前にひとつ。前回は飯沢先生の講義をもとに森山について長々と書いてしまった。先生の話術の巧みさもあり、私なりに森山の人となりや写真を勝手にイメージしていた。しかし、百聞は一見にしかず。実際に彼の立ち振る舞いや作品を目の当たりにし、私の中のイメージは少々変更を余儀なくされたことを付け加えておく。

 放映当時、島根県立美術館で「光の狩人」と題する森山の回顧展が開催中であった。番組は、森山の初期の代表作である犬の写真で始まる。まるで狼のように見える犬の、その眼光の鋭さは、ひたすら疾走を続けていた若き日の森山を反映しているようだった。

 新宿斬新な手法でそれまでの写真表現のあり方を拒否し、表現者としての自分をとことんまで追いつめた。何が写っているのかわからない写真ばかりを集めた『写真よさようなら』を出したあと「写真とは何かがわからなくなってしまった」状態が十年間続いた。一輪のシャクヤクの花にカメラを向けたことがきっかけで、『光と影』という写真集をつくった。ここで「写真とは光の化石だ」という結論を見出した森山は、さらに十年後『新宿』というパワフルな写真集でその力を世に知らしめる。その経緯が、番組でわかりやすく語られていた。


 一人の男が新宿の街を歩く。カメラは彼の後ろ姿を追いかけていく。男の足取りは速すぎも遅すぎもせず、あたかも街の速度と一体化しているようである。コートの裾を翻しながら、狭い路地や寂れたビル街を風のようにすり抜けていく。ふいにその歩みが、風俗店の看板や映画のポスターの前で止まる。男はコンパクトカメラをおもむろに取り出す。こうしていくつもの風景が、真空パックのように素早く森山のカメラにおさめられていく。

 「写真家は写真を撮っているときが一番カッコイイっていいますが、森山さんも非常に颯爽としているでしょう。とても60を超えているようには見えませんね」飯沢先生の言葉に深く頷く。そう、わたしはもっとお爺さんの写真家を想像していたのだ。神経質そうで、ちょっと変人ぽいお爺さん。だが実際の森山は、とてつもなくカッコイイ初老の男性だった。穏和な目が、シャッターを押す瞬間に強い光を放つ。被写体と対峙する瞬間、森山の全身に緊張が走る。背中がぴんと張り、その場だけ空気が凍結されたように動きを止める。そしてシャッターを押した直後にふわりと緩む、その口元が印象に残った。

 カメラを持って街を歩いている時は「目が先に行く」のだという。「全身がレーダーになって、街の空気と感応する。ポスターでも何でも、チカッと感じるものがあればそれを撮る」のだと。森山は思慮深く言葉を選びつつ、淡々と語る。無口ではないのにもの静かな印象を与えるのは、落ち着いた口調のせいだろう。

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 合間に荒木氏と飯沢先生のインタビューがあり、森山作品についてそれぞれ思うところを語られていた。荒木氏は、自ら天才の名を欲しいままにしているにもかかわらず、初期の森山作品を見て「嫉妬した」という。『センチメンタルな旅』で私写真という方法論を打ち立てたが、もしかしてそれを初めにやったのは自分ではなく森山だったのかもしれない、と懐述したあと、森山の写真は「光の中に闇を感じ、闇の中に光を感じる。光と影が情交しているんだ。あと、みんな光と影のコントラストが良いっていうけど、一番おもしろいのは灰色の部分なんだよね」と荒木氏らしいコメントを寄せていた。

 飯沢先生は、森山の粒子の粗いモノクロ写真は「生まれたばかりの風景の記憶」ではないかと仰っている。輪郭がぼやけた、しかし妙になまなましく迫ってくる風景は、生まれたばかりの赤ん坊の視界に写った世界であり、閉じこめられた記憶の底から浮かび上がる破片のようでもある。

 記憶といえば、暗室の中で作業する森山の姿が登場する。「普通、写真家は暗室の作業を見せたがらないものです。森山さんはこだわってないですね。それは彼の自信の表れでもあるのでしょうが」と、前置きをしたうえで、飯沢先生は暗室の魅力を生き生きと語ってくださり、暗室作業が記憶とどう結びついているかを話された。

 デジタルカメラが普及し、暗室をもたない写真家も増えているが、暗室の、特にモノクロームの作業には独特の魅力がある。森山はただ写っているとおりに現像する方法はとらない。明暗のコントラストや粒子の粗さをかなり調整、操作している。作業はすべて暗室で行われる。

 印画紙の上に、じわじわと被写体の輪郭が浮かび上がる。ほの暗い部屋で、現像液の匂いに包まれながらその過程を見つめる作業は、たしかに朧な記憶をたぐり寄せてはっきりさせるという脳の働きと似たところがある。ゆえに、暗室の中で写真家はさまざまな記憶と感応する。記憶のエッセンスが暗室の中で写真に付与されるといってもいいだろう。写真は現実の世界と、さらに記憶の世界が織り込まれている。それは写真家の個人的な記憶に限らない。撮影したその場所や人や物に潜んでいた記憶が、写真家の記憶と感応することによって印画紙の上に滲み出る、ということでもある。
 「一枚の写真は光の化石だ」というのが今の森山のフレーズである。鉱物だけれど、ただの古びた物体ではない。フレームのなかに生命が宿っている。生命は見る物の心を揺さぶる。ある時間ある空間に存在した光、その光の化石は過去を思い起こさせるだけでなく、未来までも予感させるのだ。

 写真を撮るという行為は、「例えて言えば、ジグゾーパズルを作る感覚」という。パズルはばらばらに細分化されている。同じように自分も世界を細分化している。一片一片は複写に過ぎなくても、完成には一片たりとも欠かせない。自分は日々その大事な断片を収拾しつづけているのだ、と。

 犬の記憶終章
『新宿』は600ページという量感からしてまさに、パズルの断片を集めた写真集といえるだろう。ただかき集めただけではない。記憶と感応して再構成されたもうひとつの新宿なのだ。その分厚い写真集をめくっていけば、都市という巨大な生命体の力に圧倒されるだろう。

 「街の中にも自分の中にも、見知らぬものがたくさん潜んでいる。それを見つけていくことが写真を撮るということじゃないかな」。

 全身をアンテナにし、その場その場の空気と感応しあうことでシャッターを押し続ける写真家は、ゆえに外界に反応できなくなったらお終いという宿命を背負っているのかもしれない。だが心配は無用だ。十年のスランプを経て蘇った森山は、揺るぎない自信を得た。光の化石の材料を求めて、彼は今も街を歩き続けている。

                          

【寄稿者 菊地】

投稿者: 日時: 2004年07月08日 15:01 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年07月19日

志賀公江氏「血と毒」

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私は何故、芸術という言葉の響きに魅せられ、文章を書き続けているのだろう。
 
 歩みを止め、佇むとき、私は決まって、ギリシャ神話の鳥人・イカロスのことを考える。彼は、周囲の人々にとっては信仰の対象に過ぎなかった、太陽という存在の実存を解き明かそうとして失敗し、挫折と孤独の中、空から失墜せざるを得なかった。私のやっている行為は、イカロスの直面した現実から目を反らし、その結末を忌諱しているに過ぎないのか。
 
 蝋で固められた羽根のように、自分の背中に括り付けられたその儚げなる「芸術」を、私は不意に、打ち壊してしまいたい衝動に駆られる。破壊され、粉々に砕け散った芸術の破片を、私の足は執拗に踏み付け、蹴り飛ばす。だが、暫くすると、私は踏みつける足を止め、再びそれら残骸を組み立て始める。蝋の羽根であれ、より強く補強し、羽ばたき続ければ、いつかは実物の太陽に到達できると考えた、夢想家イカロスの如く。
 
 2004年7月12日。今回は、前期を通じて文芸特別講義のチーフ講師を務められた、志賀公江先生による締め括りの授業が行われた。「漫画と表現規制」というコンセプトのもと、前期は計6名の特別講師の先生が、表現者のたまご達の前で、表現と芸術論を語られたことになる。

 
 

本年度前期、当講義のアシスタントを務め終え、各先生方のお話の中で、一貫して私の印象に残ったのは、表現規制が授業テーマだったにも関わらず、先生方が皆一様に、規制を前提にして創作論を語られたのではなく、むしろ、形なき自らの表現欲やエネルギーを、執筆する中、漫画作品(主に代表作)の上に、文字通り吐き出した過去を語られたという事実だった。

「漫画家ってのは、今あるもの、既製品・レディーメイドに満足できない人種なんだと、分かって貰えたと思います。恋愛と一緒で、最初から規制の中で上手く立ち回ろうなんてのは十年早い。まずは全部毒を吐いてみなさい。それで痛い目見ようが、自分自身の毒を吐き出せた作品が、結果として良い作品になるんです」(要約)志賀先生は、迫力ある口調でおっしゃった。

 私は、例によりイカロスの神話を始め、人力飛行に携わった、東西の先人達の歴史を回想していた。イカロスとライト兄弟。漫画家の先生方に聞いたなら、彼らはどちらの生き方を支持されるだろうか。
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 私には確信があった。先生方は、イカロスの方法論を支持されるに違いない。何故なら、ライト兄弟の成した偉業は、例え彼らが成し得なくても、やがては科学の発達と共に、必然的に後世の誰かが成した筈だからである。

 一方、イカロスのエピソードが、痛ましい悲劇として今日まで伝えられると同時に、我々がその姿に、何処か詩的な、表現者の姿を投影するのは、蝋の羽根をまとった彼の姿に、美的シンパシーを感じているからに他ならない。イカロスの生涯は、航空力学史の観点からすれば無駄そのものであり、故に美しく儚い。

 彼は何故、大気の流れに身を任せ、空へと舞い上がらなければならなかったのか。イカロスが、死をも予期せぬ、単なる軽薄者だったとは思えない。イカロスは、太陽を単なる信仰の対象として見ることに飽き足りなかったのではないか。己が血のざわめきに従い、彼は、禁断であった太陽の実存へと手を伸ばした。そして、イカロスの太陽への飛翔は、死によって幕を閉じられる。だが、我ら現代人は、過去から受け継がれてきた価値観を喪失した後も、しぶとく生き、描(書)き続けなければならない。


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「私にしかできない、私のやるべき仕事がある。もし、私がストリッパーになるのなら、公序良俗に反するストリッパーになりたい。自分の逮捕歴を誇れるようなね」血が躍らなければ、表現者の道などには足を踏み入れなかった、と志賀先生は言われた。
 
 血の流れは、空気の流れに似ている、と感じる。絶えず流転し、一定の法則を見い出されることを嫌う。だが、敢えてそこに法則性を当てはめるとしたら、移動し、漂泊するゆえの、決して永遠なる具象は現存しないという、万物の豊かなる柔軟と、不確実性がうかがえる。自らの血の流れに耳を傾け、そのまつろわざる主張を汲み取り、一見矛盾ではあるが、それをある形式として具象化することに成功した者こそが、表現者と呼ばれるに値する。

 大国の正義も、愛も、死も、リアリティも芸術も、もはや空虚な詭弁にしか聞こえない現実が、目の前に横たわっている。現代のイカロスは、蝋の羽根が溶け、地上に墜落しても尚、死ぬことすら許されない。自らの手で、かけがえのない価値を獲得し、構築していく時代を、我々は生きている。

【栗原隆浩】

投稿者: 日時: 2004年07月19日 01:32 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年07月27日

飯沢耕太郎氏 ~デジグラフィとは何か~

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 前期の授業もいよいよ今日で最終回。飯沢先生の講義も今回で終了とあってか、教室はいつにもまして満席状態である。席がなく、立ったままノートをとる学生もいた。

 「これまではアナログカメラの写真と写真家について講義をしてきました。でも皆さんご存知のように、ここ数年、フォトグラフィの世界に大きな変化が起こっているんですね」 

いわゆるデジカメの普及である。写真に限らず、映画など映像表現全般にいえることだが、デジタル化の波が急激に押し寄せているのだ。思えば、カメラ付き携帯電話の登場からわずか3年余りしか経っていない。にもかかわらず、ケイタイを片手で固定し写真を撮るあのポーズは街ですっかりお馴染みになった。 2002年にはデジタルカメラの出荷量がアナログカメラを上回っている。当然の流れとして、デジタルカメラを愛用する若い写真家が増え、印画紙のかわりにパソコンの画面上で作品を発表するアーティストも出てきた。

 「じつは僕はデジカメというやつに懐疑的だったんです。アナログ世代だから、フィルムにどうしても愛着がある。でもここまでくるとさすがに無視できなくなってきた」と仰る飯沢先生はごく最近、『デジグラフィ~デジタルは写真を殺すのか?~』(中央公論新社)を出版し、この問題について詳しく論じている。
 表題の「デジグラフィ」は飯沢先生の造語である。「デジタル写真という言葉はどうにも据わりが悪いというか、しっくりこない」という違和感を抱き続け、「本来は別物である写真とデジタルをくっつけて呼ぶというのはなんか、変でしょ」と思い至った。そこで、フォトグラフィ(photography)に対応する言葉としてデジグラフィ(digigraphy)をつくったという。

 先生がデジタルカメラを使い始めたのは2002年、「写真新世紀」というコンテストが十周年を迎えたときだ。創立以来審査員を務めていらした先生に、主催者のキャノンが記念品として自社のデジタルカメラとプリンターを贈呈した。それで写真を撮り、画像をプリントアウトしてみたところ…。

 「ショックでした」。アナログカメラと殆ど差がない、ひょっとするとそれよりクオリティの高い画像がボタン一つでプリントアウトできるという事実に、これまでアナログ写真が築いてきた技術は、あの苦労はなんだったんだという気にさせられたという。

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 アナログカメラとデジタルカメラの違いがどこにあるかというと、それはフィルムの部分にある。デジタルカメラにはフィルムの替わりにCCDという半導体を用いる。CCDは画像を電子信号に変換し、数値化して記憶する。このメモリーを記録しておきコンピューターに読み取らせる。すると数値が画像に変換され、パソコン画面上やプリンターに出てくるというわけである。

 最終的に私たちが目にするものは写真という物質である。これはアナログもデジタルも違いはない。ただ、アナログ写真の原形はフィルムという物質であるのに対し、デジタル写真の原形は電子信号という実体のない非物質的記号である。この非物質性がデジグラフィの大きな特質なのだ。たしかにそう言われてみると、アナログ写真に感じるある種の安定感が、デジタル写真には欠けるような気がする。 
 デジグラフィの特徴は5つ。改変性 現認性 蓄積性 相互通信性 消去性 である。

 一つづつ説明すると、は画像データーの変更や組み替えが容易にできるということである。アナログ技術では大変な手間がかかる加工も、クリック一つでおしまい。かつては暗室で何時間もかかった作業が、である。しかしその手軽さは、写真の真実性を希薄にした。海外の新聞社がねつ造写真を掲載した事件など、特に報道写真の分野で弊害を生んでいるという。一方、アートの写真は真実性が第一義ではないため、改変性を利用して写真をより独創的にしようとする写真家もいる。
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 は現場で画像を確認できるということである。例えばスポーツ写真では、いわゆる決定的瞬間というやつがあり、それを写すのがカメラマンの使命ともなっている。アナログでは撮った結果をその場で確認できない。もし決定的瞬間を撮り逃していたらおおごとである。だから失敗に備えて余分に撮り貯めするなどの工夫が必要だった。デジグラフィでは、どうしても逃せない一瞬を捕まえようと思ったら、いちいちシャッターを押すまでもない。ビデオカメラのように機械的に連写しておき、現場でその映像を確かめながらこれというものを選べばよいのだ。失敗を恐れる必要はなくなったが、やはり撮影方法の違いからだろうか、デジグラフィの写真には、決定的瞬間に値する緊張感が欠けると言われる。

 CDログで大量な画像をコンパクトに保存できるようになったことを指す。ただし、CDログとて永遠に壊れない訳ではない。一説に寿命は30年と言われ、寿命が来れば磁気データーは自動的に破損するかもしれないのだ。さらに数値を画像化するためのメモリー読み取り装置が必要で、この装置の方に異変が起きたらCDログはただの金属の塊と化してしまう。このようなことを考え合わせると、印画紙に転写した写真の方が保存性は高いかもしれない。


 今や世界中を網羅するインターネットのことである。インターネットにより、画像を大量に、即時に、正確に送受信できるようになった。これは画期的なことだが、ネットの世界は膨張しつづけ、現実から遊離してもう一つの世界を作ってしまっている。擬似現実をあたかも現実と錯覚する危険は、多くの人が思い当たるだろう。

 ボタンで画像を一瞬のうちに、簡単に消去できるということ。所詮メモリー内のデーターだから可能なことで、アナログではこうはいかない。消去するには、フィルムを焼くなり何らかの手間がかかるし、物質だから全くゼロに還るわけではない。
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総括すると、デジグラフィの性質は、消去可能の儚さ、脆さ、非物質的な不安定感といえる。表現手段として考えるときこれらは欠点にもなる。しかし逆手にとって長所ととらえ、デジタルならではのテイストを打ち出すこともできるだろう。

 ひととおり講義が終わり、「では実際に見てみましょう」と、インターネット画面がスライドに映しだされた。先生はパソコンを操りながら、webサイトで作品を発表しているアーティストを紹介された。最近このてのアーティストは多いが、その中でも目立った活躍をしている三人、小林のりお内原恭彦永沼敦子の作品を目にすることができた。

 検索すればアドレスが見つかると思うので、ぜひ見てみてください。それぞれ素敵なデジグラフィです。私はやはり、フォトグラフィが好きですが…。

                                              

【寄稿者 菊地】

投稿者: 日時: 2004年07月27日 13:11 | | コメント (0) | トラックバック (0)

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