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2004年07月08日

森山大道その2 ~写真とは光の化石である~

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前回に引き続き、写真家森山大道の仕事を紹介する。飯沢先生が持参して来られたビデオ「NHK 新日曜美術館 写真とは光と時の化石である/写真家・森山大道」(2003年3月9日放映)を観た。この授業は受講者が多く、教室は満席状態である。写真に詳しい学生もそうでない学生も、皆熱心にビデオを観ていた。

 森山を追いかけたドキュメンタリー作品は、ほかに「≒森山大道」(藤井健次郎監督2002年 DVD)がある。こちらも興味深い。 

 本題に入る前にひとつ。前回は飯沢先生の講義をもとに森山について長々と書いてしまった。先生の話術の巧みさもあり、私なりに森山の人となりや写真を勝手にイメージしていた。しかし、百聞は一見にしかず。実際に彼の立ち振る舞いや作品を目の当たりにし、私の中のイメージは少々変更を余儀なくされたことを付け加えておく。

 放映当時、島根県立美術館で「光の狩人」と題する森山の回顧展が開催中であった。番組は、森山の初期の代表作である犬の写真で始まる。まるで狼のように見える犬の、その眼光の鋭さは、ひたすら疾走を続けていた若き日の森山を反映しているようだった。

 新宿斬新な手法でそれまでの写真表現のあり方を拒否し、表現者としての自分をとことんまで追いつめた。何が写っているのかわからない写真ばかりを集めた『写真よさようなら』を出したあと「写真とは何かがわからなくなってしまった」状態が十年間続いた。一輪のシャクヤクの花にカメラを向けたことがきっかけで、『光と影』という写真集をつくった。ここで「写真とは光の化石だ」という結論を見出した森山は、さらに十年後『新宿』というパワフルな写真集でその力を世に知らしめる。その経緯が、番組でわかりやすく語られていた。


 一人の男が新宿の街を歩く。カメラは彼の後ろ姿を追いかけていく。男の足取りは速すぎも遅すぎもせず、あたかも街の速度と一体化しているようである。コートの裾を翻しながら、狭い路地や寂れたビル街を風のようにすり抜けていく。ふいにその歩みが、風俗店の看板や映画のポスターの前で止まる。男はコンパクトカメラをおもむろに取り出す。こうしていくつもの風景が、真空パックのように素早く森山のカメラにおさめられていく。

 「写真家は写真を撮っているときが一番カッコイイっていいますが、森山さんも非常に颯爽としているでしょう。とても60を超えているようには見えませんね」飯沢先生の言葉に深く頷く。そう、わたしはもっとお爺さんの写真家を想像していたのだ。神経質そうで、ちょっと変人ぽいお爺さん。だが実際の森山は、とてつもなくカッコイイ初老の男性だった。穏和な目が、シャッターを押す瞬間に強い光を放つ。被写体と対峙する瞬間、森山の全身に緊張が走る。背中がぴんと張り、その場だけ空気が凍結されたように動きを止める。そしてシャッターを押した直後にふわりと緩む、その口元が印象に残った。

 カメラを持って街を歩いている時は「目が先に行く」のだという。「全身がレーダーになって、街の空気と感応する。ポスターでも何でも、チカッと感じるものがあればそれを撮る」のだと。森山は思慮深く言葉を選びつつ、淡々と語る。無口ではないのにもの静かな印象を与えるのは、落ち着いた口調のせいだろう。

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 合間に荒木氏と飯沢先生のインタビューがあり、森山作品についてそれぞれ思うところを語られていた。荒木氏は、自ら天才の名を欲しいままにしているにもかかわらず、初期の森山作品を見て「嫉妬した」という。『センチメンタルな旅』で私写真という方法論を打ち立てたが、もしかしてそれを初めにやったのは自分ではなく森山だったのかもしれない、と懐述したあと、森山の写真は「光の中に闇を感じ、闇の中に光を感じる。光と影が情交しているんだ。あと、みんな光と影のコントラストが良いっていうけど、一番おもしろいのは灰色の部分なんだよね」と荒木氏らしいコメントを寄せていた。

 飯沢先生は、森山の粒子の粗いモノクロ写真は「生まれたばかりの風景の記憶」ではないかと仰っている。輪郭がぼやけた、しかし妙になまなましく迫ってくる風景は、生まれたばかりの赤ん坊の視界に写った世界であり、閉じこめられた記憶の底から浮かび上がる破片のようでもある。

 記憶といえば、暗室の中で作業する森山の姿が登場する。「普通、写真家は暗室の作業を見せたがらないものです。森山さんはこだわってないですね。それは彼の自信の表れでもあるのでしょうが」と、前置きをしたうえで、飯沢先生は暗室の魅力を生き生きと語ってくださり、暗室作業が記憶とどう結びついているかを話された。

 デジタルカメラが普及し、暗室をもたない写真家も増えているが、暗室の、特にモノクロームの作業には独特の魅力がある。森山はただ写っているとおりに現像する方法はとらない。明暗のコントラストや粒子の粗さをかなり調整、操作している。作業はすべて暗室で行われる。

 印画紙の上に、じわじわと被写体の輪郭が浮かび上がる。ほの暗い部屋で、現像液の匂いに包まれながらその過程を見つめる作業は、たしかに朧な記憶をたぐり寄せてはっきりさせるという脳の働きと似たところがある。ゆえに、暗室の中で写真家はさまざまな記憶と感応する。記憶のエッセンスが暗室の中で写真に付与されるといってもいいだろう。写真は現実の世界と、さらに記憶の世界が織り込まれている。それは写真家の個人的な記憶に限らない。撮影したその場所や人や物に潜んでいた記憶が、写真家の記憶と感応することによって印画紙の上に滲み出る、ということでもある。
 「一枚の写真は光の化石だ」というのが今の森山のフレーズである。鉱物だけれど、ただの古びた物体ではない。フレームのなかに生命が宿っている。生命は見る物の心を揺さぶる。ある時間ある空間に存在した光、その光の化石は過去を思い起こさせるだけでなく、未来までも予感させるのだ。

 写真を撮るという行為は、「例えて言えば、ジグゾーパズルを作る感覚」という。パズルはばらばらに細分化されている。同じように自分も世界を細分化している。一片一片は複写に過ぎなくても、完成には一片たりとも欠かせない。自分は日々その大事な断片を収拾しつづけているのだ、と。

 犬の記憶終章
『新宿』は600ページという量感からしてまさに、パズルの断片を集めた写真集といえるだろう。ただかき集めただけではない。記憶と感応して再構成されたもうひとつの新宿なのだ。その分厚い写真集をめくっていけば、都市という巨大な生命体の力に圧倒されるだろう。

 「街の中にも自分の中にも、見知らぬものがたくさん潜んでいる。それを見つけていくことが写真を撮るということじゃないかな」。

 全身をアンテナにし、その場その場の空気と感応しあうことでシャッターを押し続ける写真家は、ゆえに外界に反応できなくなったらお終いという宿命を背負っているのかもしれない。だが心配は無用だ。十年のスランプを経て蘇った森山は、揺るぎない自信を得た。光の化石の材料を求めて、彼は今も街を歩き続けている。

                          

【寄稿者 菊地】

日時: 2004年07月08日 15:01 | パーマリンク |TOPページへ   ▲画面上へ

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