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2004年11月04日

ビッグ錠先生~マンネリ打破すべし~

2004年10月1・8・15日 三回分

ビッグ錠といえば、パチンコ漫画の草分けであり、料理漫画ブームの先端を切ったマンガ家としてあまりにも有名である。じつは筆者は『釘師サブやん』も『庖丁人味平』も読んだことがない。漫画にあかるくないので、不備な点が多々あると思いますが、お許しいただければ幸いです。

 初回、教室にあらわれたビッグ錠先生は、やわらかな関西弁のアクセントで話しはじめた。穏やかな初老の男性という印象だが、カジュアルなシャツやGパンがよく似合う。折り目正しくも、サラリーマンにはない自由闊達な空気を纏っていらっしゃる。

まずご自身がデビューした当時のこと。貸本屋が全盛だった時代から、テレビや映画が普及して貸本屋が途絶えていくまでの、学生達にとっては遙か昔に感じられるであろう社会状況が説明される。
「今で言うレンタルビデオですね、貸本屋は。一日働いて、帰り道でふらっと貸本屋に寄って青年漫画を一冊借りて読みながら寝ちゃう。そういうもんでした」

 高校生のときから貸本屋に出入りしていた。顧客に接し、大人の世界を垣間見てきた。客はまた読者でもあった。自分の漫画を読むのはこういう人たちなのか・・・という作り手の意識が育っていった。
デビュー作は、高校一年生のときに、貸本屋向けに描いた作品『バクダン君』だった。
決してすんなりとマンガ家になったわけではない。貸本屋が衰退したあと、広告代理店「電通」で働きはじめる。広告業界の波に揉まれていくうちに、いつしか漫画への関心は薄らいでいた。「電通」時代は映画を山ほど観た。ちょうど日本は映画の全盛期を迎えており、映画関係の広告の仕事も多数入っていた。
「このとき暇さえあれば映画を観まくったのがよかったですねぇ。あとで青年漫画を書くことになるんですが、そのネタとして非常に役に立ったんです。映画のワンシーンとか俳優の動きとかね」
漫画に還ったきっかけは、文藝春秋から発売された『まんが読本』という新しいスタイルの本を手に取ったことだった。載っていたのは外国の漫画で、それまで日本の漫画しか知らなかった若者にはその絵が斬新に映った。初めて「イラストレーション」という言葉に触れた。それ以前は「挿絵」「イラスト」と呼ばれていたジャンルの仕事だった。

「昔は漫画っていうのは少年漫画が殆どだったんです。大人になったら漫画は卒業、小説に移行するものだと思われていた。それでもサラリーマンや労働者の人が読む、娯楽としての漫画の需要はあったわけで、貸本屋がそれをまかなっていたんだけど、どんどん潰れちゃったでしょう。でも大人も、読むんですよ、漫画。それで青年誌というのを出版社が出すようになった。内容は高校生から大人を対象としています。『ビッグコミック』とか『ヤング』ですね」

青年誌という新たな活躍の場を得た先生は、1971年『釘師サブやん』を「週刊少年マガジン」誌上で発表。パチンコを題材とした本作は大当たりとなり、漫画家ビッグ錠の本格的なキャリアがスタートする。
「広告業界にいるのもなんかつまらんなぁ、となってきてね。お客さんの顔が見えないでしょ。何しろ大組織で、自分が誰に対して商売しているのか分からなくなってくる。その点、マンガ家は読者の顔が見えますから。こういう人たちが読むようなのを描こうっていうのがはっきりしてますしね」
その後の活躍はご存じのとおり。『包丁人味平』『一本包丁満太郎』などの料理漫画も一世を風靡した。
「大宅壮一さんが主宰したマスコミ塾に通ってたことがあるんですが、そこで職人相手の取材術を学びました。彼らはとにかく無口でね、取材だインタビューだなんて言っても相手にしてくれない。酒と女の話を持ってくると、ようやく喋ってくれますね」

パチンコにしろキャバレーにしろ、現場に足を運び、その業界独特の空気を嗅ぐこと、これが作品を描くうえで一番重要だという。頭の中のイメージだけでは絶対に描けない。働く人たちの匂いを嗅ぎ、ともに体験してみること。そうやってはじめて「よし、これで描ける。これでいける」という自信が湧く。

描く段階でも苦心はある。食べ物をリアルに、かつ美味しそうに描くのは案外難しいものだ。その味や匂いまで見た人に伝わるにはどうしたらいいか、試行錯誤を重ねた。このときは「電通」時代にフードコーディネーターの仕事を見ていたのが役に立った。たとえば先生の描くラーメンは、麺の一本一本が今にもすすり上げられるのを待っているかのようだ。描写が仔細なわけではない。線の勢い、といったらいいだろうか。線の絶妙な力加減が、匂いや味までもを体現し得ているのだ。

『釘師サブやん』が受けたのも、パチンコ玉が主役というそれまでになかった漫画だったからといえよう。
「玉の動きを追うだけで気がついたらページが終わっていた。パチンコ玉が動くだけでドラマになるような漫画にしたかった」と仰る。玉が転がる躍動感、音、振動。それを静止画でどう表現するか。それはすなわち、パチンコの醍醐味をダイレクトに読者に伝えるということでもあった。

数年後にはベテランの域に達し、毎日こつこつと描き続ける日々が続いた。漫画家としての名声も、揺るぎない代表作もできた。だがいまひとつ面白くない。自分の描く絵に飽きてきていた。描いていてもつまらない。喜びがない。

58歳のときに、首を痛め一ヶ月の寝たきり生活を余儀なくされた。何も出来ない状態でひたすら考え抜いた結論は、仕事を一時休止し旅に出ることだった。行き先はニューヨーク。連れはなし。60を目前とした男性が一人ニューヨークに渡り、ハーレムを住処にして暮らし始めたのである。

何もしない暮らしが目的だった。ミュージカルや美術館を巡り、張り紙で見た語学教室に通った。黒人や白人や南米出身の知り合いができ、「ジョー」と呼ばれて親しまれた。言葉が不足な分は絵で補った。あっというまに仕上がる似顔絵に彼らは感嘆の声を上げた。

「どうにも描きたくなってくるんですわ。何か描きたい、描きたい思ってると、子どものころを思い出しましてね。そうだ、大阪にいたときもこんな気持ちで描いてたんだなあと」

意識の下で、新しい作品へのインスピレーションが膨れ上がっていた。風船を針でつつくがごとく、それが噴出したきっかけは、朝のニューヨークのカフェでの何気ないワンシーンだった。

「婦人警官が、バーンとドアを開けて入ってきたんです。あっちの警官はスタイリストがついてるんちゃうかと思うくらい格好良くて、堂々としていて。ああかっこいいなぁ、思いましてね。あまりにも印象的で、読んでいた新聞に走り描きしたんです」

新聞の余白にラフなタッチで書かれた人物や風景は、思いがけないほどNYの空気を色濃く醸し出した作品になった。

それからは新聞が先生のクロッキー帳代わりになった。鉛筆ではなく必ずマジックを使う。新聞紙にマジックで描くときの感触が好きなのだという。インクのにじみ具合などが面白いのだ、と。それから時間をかけないこと。眼で捉えた瞬間を、できるだけ素早く紙に写し取ることが大事なのだ。だらだら時間をかけると、勢いのない弱い絵になってしまう。

描きためた作品を集め、海外や日本で個展を開いてみると、新たな作風として大きな反響を呼んだ。ニューヨークで再生を果たしたビッグ錠は、再び漫画を描きはじめた。
先生は最後にずしりとくることを仰った。

「手が慣れてくると絵は綺麗になる。小奇麗な感じにはなるんだけど、面白さがなくなる。このニューヨークのスケッチもそうですけど、初期のころの方が絵として強さがあって、面白いんですよ。線とかは下手くそだけど。あと、個展に出し始めたらそれを意識して描くようになって。そうなったら駄目でしたね」

マンネリ打破すべし。だが、先生のように長年現役で活躍されているプロで、それを実践できている漫画家はどれほどいるのだろうか。これは漫画家に限らず、すべての創作者に当てはまることなのだった。
 

【寄稿者 菊地】

日時: 2004年11月04日 10:31 | パーマリンク |TOPページへ   ▲画面上へ

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