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2004年12月06日

水口哲也先生 ~感動という現象について考えてみよう~

スクリーンに子供たちの賑やかな様子が映しだされる。机が並んだ小学校の教室は、どことなく懐かしさを誘う。その教室に向かって廊下を歩いているのは、水口先生だ。NHK『課外授業 ようこそ先輩』(2003年10月12日放送分)に、先生が出演している。そのビデオを学生達が観ているところである。

 筆者はこの番組を観るのは初めてなのだが、題名から察するに、「各界で活躍している著名人が母校を訪れ、自分の専門分野にまつわることを分かり易く教える」ということらしい。番組の冒頭で、水口先生がインタビュアーに語っている場面がある。

「ゲームそのものよりも、子供たちには未来を想像させたい」

未来をつくってきたのは人間の欲望や欲求だ。だから未来を考える第一歩は、自分の欲求をはっきりさせることなのだ、と。

まず、どのような未来を望んでいるか、子供たちに自由に書いてもらう。こんなものがあったらいいな、こんなふうになったらいいな。荒唐無稽でも構わない。ばかばかしい、こんなものが実現するはずがない、と大人が一笑に付すようなアイデアに、未来への可能性が潜んでいるかもしれないのだ。

子供たちの回答用紙を読む先生の顔は、じつに楽しげだ。どれもその子なりに頭をしぼって書いたのであろうことが伝わってくる。「これは遊園地願望だな・・・、こっちはヒーロー願望。ヒーロー願望の子ってやっぱり多いですね」などとコメントを発しつつ、先生はおおまかに分別をはじめた。最終的に、似たような願望を提出してきた子供どうしで8つのグループに振り分けられた。

再び教壇に立つ先生。同じグループになった子の名前を読み上げていく。最初に集まったのは、女の子ばかり3~4人のグループだ。

「ここは、ファッションに関心が高い人たちのグループです。で、君たちには未来のファッションを考えてもらいたい」

先生が課題を言い渡す。同様に「未来の放送局を考えるグループ」、「未来の人と動物の関係を考えるグループ」、「未来のロボットを考えるグループ」、「よりよい未来社会を考えるグループ」などができあがっていく。メンバーは課題に沿っておのおのの未来をイメージし、話し合い、絵や模型などで具体的に表現する。その結果をみんなの前で発表することになった。

始めは戸惑い気味だった子供たちも、アイデアを出しあううちにイメージが膨らんできたようだ。話し合う子たちの表情はいきいきとしている。得意分野で自分たちが思い描いた未来を製作できるのだから、かなり張りきっている。

発表内容は、それぞれ興味深いものだった。例えばファッションのグループは、携帯電話機能が付いたピアスや、持ち運びに便利な伸縮自在の服を提案した。よりよい未来社会のグループでは、戦争を撲滅するために、相手の思想がダイレクトに脳に伝達される「気持ち共有マシーン」なるものを考え出した。

驚いたのは、子供どうしでこれだけ質の高いプレゼンテーションが出来てしまうという事実だ。小学生を侮ってはいけない。また、決まりごとに縛られた大人の発想がどれほど貧弱になっているかも思い知らされた。醒めた子供が多くなったといわれるが、北海道札幌市立南郷小学校の生徒たちを見る限りは、いたずらに悲観的になる必要はなさそうだ。

「実現するかどうかは別として、この課題は考えるプロセスが大事なんです。今は普通にある携帯電話やパソコンも、もともとは人間の欲求が作り出したものでしょ。欲求には大多数の人が持っている普遍的欲求と、その人の個性に繋がっている個人的欲求があって、僕もみんなもこの二つの組み合わせで生きているわけです」

普遍的欲求は、ざっと30ぐらい数えられるという。さらに人間には、欲求のほかに本能が備わっている。欲求は育った環境や文化で異なってくるが、本能は全人類に共通のものだ。

「ゲーム作りでは本能を重視します。たとえば競争本能、収集本能、育成本能。これらにはまると確実にヒットする。いい例は「たまごっち」ですね。あれは育成本能や交換本能をうまく満たすように出来ているから、海外でもヒットしたんです。逆にある地域ではウケるけれど、他では全くダメという、非常にローカル色の濃いゲームもあります。こういうのは欲求の方を重視してつくったゲームといえますね」
本能は先天的に備わっているのに対し、欲求は後天的な価値観で作られる部分が大きい。ゆえに、本能より欲求を刺激するようプログラムされたゲームは、グローバル化しづらいのだという。

本能と密接に繋がっているのが感覚、いわゆる五感というものである。人間の五感もおおむね共通のもので、人種や国民性によって大差はない。気持ちいいと感じるツボは大体みんな一緒なのだ。快、不快などの感覚は最大公約化が可能な事象といえよう。

次に、感動という現象について考えてみよう。感動=心が動かされること。何ものかによって深く感情が揺すぶられるという、誰もが覚えのある体験をしたとき、そこには大きな3つの特徴がみられる。
「3つの違いはちょっとわかりにくくて、境界が曖昧な部分もあるんですが。

1つは、状態の問題です。アクションを起こす側の能動と、受け身側の受動。人間って能動か受動かの二つの状態でしかないんですよ、常に。スイッチは一個で、どちらかがONならばもう一方はOFFなんです。そのときどちらの状態にいるかで、感動の質が異なってきます。

2つ目は、立場、視点の問題です。一人称か、三人称か。スポーツを考えてみるとわかりやすい。一人称の感動は、プレーしている選手が味わうもの。自分が主体となったときに得られる感動ですね。三人称は、プレーを観戦している観客の感動。映画を観て感動したっていうのも三人称です。客観的な立場で、まあ気持ちよく騙されているというか…。

3つ目は、感情移入と感覚移入。感覚移入という言葉は辞書にはなくて、僕が勝手に作ったんですが、自分の外側で起こっている出来事に対して、一種のリアル感というか、手応えが感じられること、といったらいいでしょうか。映像でいうと、1秒間に60フレーム以上で、かつ視覚野の60%以上を占めれば、生理的数値としてリアル感がぐっと増すようにできている。だいたい数値で測れるものなんですね。感情移入は、その数値を超えた何かなんです。個人差があって、おそらく生育歴などに大きく影響されている。」

なるほどと思い、感動の体験を頭の中でリフレインしてみたが、それがどういう種類の感動であったか、類別するのは難しかった。感動を客観的に分析するのはすこぶる困難なのだ。

hokann.gif補足すると、三人称の感動は蓄積する性質を持つ。受け身の状態である時点まで溜まったときに、大きい感動として実感される、という。一人称の感動は、自分から仕掛けることで作られ、すぐ出ていくがまた再生される。前者がストック機能のみなのに対し、後者はストックとリリースを速い循環で繰り返すという性質がある。

「あと、補完というのもキーワードですね。人間には補完機能というのがあって、足りない部分を自分で補って、自分だけの物語を作るという作業をしている。行間を読むというやつですね。これも感動を作り上げる大きな要素です」

さて、学期末のレポートの課題が出された。「自分の人生の中で最も感動した経験を一つあげ、それをきわめて客観的に分析しなさい」。先生は秘密厳守を約束した上で、この題に決めたようである。重要な個人情報となるレポートは読んだらすぐにシュレッダーにかけ、他者の目には触れさせないので安心してください、と仰る先生。無闇に他人に読まれたらそりゃ嫌だけれど、感動の経験を綴ったレポートを即座にシュレッダーにかけられても切ないよなあ、と筆者はちらりと思ったのであった。

日時: 2004年12月06日 11:53 | パーマリンク |TOPページへ   ▲画面上へ

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