<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
   <title>文芸学科　授業レポート</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://report.bunka-kaigi.com/" />
   <link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://report.bunka-kaigi.com/atom.xml" />
   <id>tag:report.bunka-kaigi.com,2007://2</id>
   <updated>2007-05-21T14:06:43Z</updated>
   
   <generator uri="http://www.sixapart.com/movabletype/">Movable Type 3.35</generator>

<entry>
   <title>水口哲也先生 ～感動という現象について考えてみよう～</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://report.bunka-kaigi.com/archives/2004/12/post_38.html" />
   <id>tag:bungei.chicappa.jp,2004:/report//2.185</id>
   
   <published>2004-12-06T02:53:40Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:06:43Z</updated>
   
   <summary>スクリーンに子供たちの賑やかな様子が映しだされる。机が並んだ小学校の教室は、どこ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="文芸特殊研究1" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://report.bunka-kaigi.com/">
      スクリーンに子供たちの賑やかな様子が映しだされる。机が並んだ小学校の教室は、どことなく懐かしさを誘う。その教室に向かって廊下を歩いているのは、水口先生だ。NHK『課外授業　ようこそ先輩』（2003年10月12日放送分）に、先生が出演している。そのビデオを学生達が観ているところである。

　筆者はこの番組を観るのは初めてなのだが、題名から察するに、「各界で活躍している著名人が母校を訪れ、自分の専門分野にまつわることを分かり易く教える」ということらしい。番組の冒頭で、水口先生がインタビュアーに語っている場面がある。

「ゲームそのものよりも、子供たちには未来を想像させたい」

未来をつくってきたのは人間の欲望や欲求だ。だから未来を考える第一歩は、自分の欲求をはっきりさせることなのだ、と。
      <![CDATA[まず、どのような未来を望んでいるか、子供たちに自由に書いてもらう。こんなものがあったらいいな、こんなふうになったらいいな。荒唐無稽でも構わない。ばかばかしい、こんなものが実現するはずがない、と大人が一笑に付すようなアイデアに、未来への可能性が潜んでいるかもしれないのだ。

子供たちの回答用紙を読む先生の顔は、じつに楽しげだ。どれもその子なりに頭をしぼって書いたのであろうことが伝わってくる。「これは遊園地願望だな･･･、こっちはヒーロー願望。ヒーロー願望の子ってやっぱり多いですね」などとコメントを発しつつ、先生はおおまかに分別をはじめた。最終的に、似たような願望を提出してきた子供どうしで８つのグループに振り分けられた。

再び教壇に立つ先生。同じグループになった子の名前を読み上げていく。最初に集まったのは、女の子ばかり３～４人のグループだ。

「ここは、ファッションに関心が高い人たちのグループです。で、君たちには未来のファッションを考えてもらいたい」

先生が課題を言い渡す。同様に「未来の放送局を考えるグループ」、「未来の人と動物の関係を考えるグループ」、「未来のロボットを考えるグループ」、「よりよい未来社会を考えるグループ」などができあがっていく。メンバーは課題に沿っておのおのの未来をイメージし、話し合い、絵や模型などで具体的に表現する。その結果をみんなの前で発表することになった。

始めは戸惑い気味だった子供たちも、アイデアを出しあううちにイメージが膨らんできたようだ。話し合う子たちの表情はいきいきとしている。得意分野で自分たちが思い描いた未来を製作できるのだから、かなり張りきっている。

発表内容は、それぞれ興味深いものだった。例えばファッションのグループは、携帯電話機能が付いたピアスや、持ち運びに便利な伸縮自在の服を提案した。よりよい未来社会のグループでは、戦争を撲滅するために、相手の思想がダイレクトに脳に伝達される「気持ち共有マシーン」なるものを考え出した。

驚いたのは、子供どうしでこれだけ質の高いプレゼンテーションが出来てしまうという事実だ。小学生を侮ってはいけない。また、決まりごとに縛られた大人の発想がどれほど貧弱になっているかも思い知らされた。醒めた子供が多くなったといわれるが、北海道札幌市立南郷小学校の生徒たちを見る限りは、いたずらに悲観的になる必要はなさそうだ。

「実現するかどうかは別として、この課題は考えるプロセスが大事なんです。今は普通にある携帯電話やパソコンも、もともとは人間の欲求が作り出したものでしょ。欲求には大多数の人が持っている普遍的欲求と、その人の個性に繋がっている個人的欲求があって、僕もみんなもこの二つの組み合わせで生きているわけです」

普遍的欲求は、ざっと30ぐらい数えられるという。さらに人間には、欲求のほかに本能が備わっている。欲求は育った環境や文化で異なってくるが、本能は全人類に共通のものだ。

「ゲーム作りでは本能を重視します。たとえば競争本能、収集本能、育成本能。これらにはまると確実にヒットする。いい例は「たまごっち」ですね。あれは育成本能や交換本能をうまく満たすように出来ているから、海外でもヒットしたんです。逆にある地域ではウケるけれど、他では全くダメという、非常にローカル色の濃いゲームもあります。こういうのは欲求の方を重視してつくったゲームといえますね」
本能は先天的に備わっているのに対し、欲求は後天的な価値観で作られる部分が大きい。ゆえに、本能より欲求を刺激するようプログラムされたゲームは、グローバル化しづらいのだという。

本能と密接に繋がっているのが感覚、いわゆる五感というものである。人間の五感もおおむね共通のもので、人種や国民性によって大差はない。気持ちいいと感じるツボは大体みんな一緒なのだ。快、不快などの感覚は最大公約化が可能な事象といえよう。

次に、感動という現象について考えてみよう。感動＝心が動かされること。何ものかによって深く感情が揺すぶられるという、誰もが覚えのある体験をしたとき、そこには大きな３つの特徴がみられる。
「３つの違いはちょっとわかりにくくて、境界が曖昧な部分もあるんですが。

１つは、状態の問題です。アクションを起こす側の能動と、受け身側の受動。人間って能動か受動かの二つの状態でしかないんですよ、常に。スイッチは一個で、どちらかがＯＮならばもう一方はＯＦＦなんです。そのときどちらの状態にいるかで、感動の質が異なってきます。

２つ目は、立場、視点の問題です。一人称か、三人称か。スポーツを考えてみるとわかりやすい。一人称の感動は、プレーしている選手が味わうもの。自分が主体となったときに得られる感動ですね。三人称は、プレーを観戦している観客の感動。映画を観て感動したっていうのも三人称です。客観的な立場で、まあ気持ちよく騙されているというか…。

３つ目は、感情移入と感覚移入。感覚移入という言葉は辞書にはなくて、僕が勝手に作ったんですが、自分の外側で起こっている出来事に対して、一種のリアル感というか、手応えが感じられること、といったらいいでしょうか。映像でいうと、１秒間に60フレーム以上で、かつ視覚野の60％以上を占めれば、生理的数値としてリアル感がぐっと増すようにできている。だいたい数値で測れるものなんですね。感情移入は、その数値を超えた何かなんです。個人差があって、おそらく生育歴などに大きく影響されている。」

なるほどと思い、感動の体験を頭の中でリフレインしてみたが、それがどういう種類の感動であったか、類別するのは難しかった。感動を客観的に分析するのはすこぶる困難なのだ。

<img class="imagr" alt="hokann.gif" src="http://bungei.chicappa.jp/images/hokann.gif" width="333" height="160" border="0" />補足すると、三人称の感動は蓄積する性質を持つ。受け身の状態である時点まで溜まったときに、大きい感動として実感される、という。一人称の感動は、自分から仕掛けることで作られ、すぐ出ていくがまた再生される。前者がストック機能のみなのに対し、後者はストックとリリースを速い循環で繰り返すという性質がある。

「あと、補完というのもキーワードですね。人間には補完機能というのがあって、足りない部分を自分で補って、自分だけの物語を作るという作業をしている。行間を読むというやつですね。これも感動を作り上げる大きな要素です」

さて、学期末のレポートの課題が出された。「自分の人生の中で最も感動した経験を一つあげ、それをきわめて客観的に分析しなさい」。先生は秘密厳守を約束した上で、この題に決めたようである。重要な個人情報となるレポートは読んだらすぐにシュレッダーにかけ、他者の目には触れさせないので安心してください、と仰る先生。無闇に他人に読まれたらそりゃ嫌だけれど、感動の経験を綴ったレポートを即座にシュレッダーにかけられても切ないよなあ、と筆者はちらりと思ったのであった。]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>しりあがり寿先生～今の世の中を自分なりにどう分析するか～</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://report.bunka-kaigi.com/archives/2004/11/post_37.html" />
   <id>tag:bungei.chicappa.jp,2004:/report//2.184</id>
   
   <published>2004-11-19T06:43:30Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:12:52Z</updated>
   
   <summary>　しりあがり寿先生　二回目（10／７）、三回目（10／29）の講義内容 　前回、...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="文芸特殊研究1" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://report.bunka-kaigi.com/">
      <![CDATA[　しりあがり寿先生　二回目（10／７）、三回目（10／29）の講義内容

　前回、授業の最後にアンケート用紙を配布した。今回はその集計結果の発表から講義が始まった。ちなみに、アンケートの詰問事項は以下の通りである。

Ｑ１　マンガ家になりたいですか？　　　　　　　　　
Ｑ２　好きなマンガ家は？
Ｑ３　好きなマンガ作品は？
Ｑ４　好きなマンガ雑誌は？
Ｑ５　マンガ以外で好きな作品、作家などは？
Ｑ６　最近実際に買ったマンガ単行本は？
<img class="photol" alt="hands.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/hands.jpg" width="329" height="251" border="0" />
　結果をざっとならべてみよう。

　マンガ家になりたいと答えた人は25人、なりたくないは116人、どちらとも言えないは8人だった。文芸学科であるから、マンガ家志望は少ないのだろう。

　好きなマンガ家で一番多くあがった名前は、浦沢直樹だった。２位が矢沢あい、次いで手塚治虫、さくらももこ、古屋実など、ポピュラーな作家名が並ぶ。]]>
      <![CDATA[　好きなマンガ作品の第１位は「ドラゴンボール」、第２位「スラムタング」第３位「ＮＡＮＡ」「ハンターハンター」（同点）、５位「風の谷のナウシカ」、６位「ちびまるこちゃん」「ジョジョの奇妙な冒険」「デスノート」など。今売れている作品と、少し前の作品が入りまじっている。

　好きなマンガ雑誌は、ダントツ１位が「ジャンプ」。あとは「マガジン」「サンデー」「スピリッツ」「りぼん」という順。

　マンガ以外で好きな作品、作家の１位は村上春樹。２位松尾スズキ、３位官藤官九郎、４位が宮部みゆきと野田秀樹、６位が村上龍と北野武、などだった。

　最近買ったマンガ単行本は、「デスノート」が１位。２位「ＮＡＮＡ」、３位「シガテラ」等々。
　同じ内容のアンケートを他大学でも行い、その結果を日本大学芸術学部のものと比較してみた。少数意見にはばらつきが見られたが、上位５位ぐらいまではさほど違いがなかった。さらにマンガ単行本売り上げ全国データー（9／8～15まで）をみると、「デスノート」（vol.3）がトップであり、Ｑ６の１位と重なっている。

　「ここまでやってきてなんですが、順位は問題じゃないんですよ」としりあがり先生。各項目で何がトップにあがったかは重要ではないというのだ。大事なのは、データーを自分なりに意味づけしてみること。総括して何が見えてくるか、そこからどのような結論を導くか、その過程に自分の個性があらわれる。それを知ることがねらいなのだ。

同時に行ったもう一つのアンケートは、「いま、大切だと思うことは何ですか」という問いだ。政治、社会、経済、文化の４領域でそれぞれ具体的な事象を羅列し、大切だと思うことにいくつでもマルをつけてもらう。文化では「音楽」、経済では「景気回復」、社会では「環境問題」が最も多く選ばれた。だがこれも、「今、何が一番関心を持たれているのか」という疑問に対する一つの答えにすぎない。羅列された事象はすべて、今の社会にあてはまるものだ。すべての事象は連鎖しているといえる。それぞれの事象をどう繋げていくか。そこに個性や志向が見えてくるのである。
<img class="photor" alt="siri250.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/siri250.jpg" width="280" height="223" border="0" />

「市場分析は、今どんなマンガを描いたら売れるか、のひとつの手がかりです。それによって、自分が今どんなマンガを描くべきかもわかってくる。それと自分が描きたいことはまた別だったりするんですが」
例えば分析の結果、Ａが売れる、という結論が出たとしよう。このＡが売れる条件は、おおざっぱにいって２つ考えられる。１つは、明らかに潜在的ニーズがありながらＡのようなものがまだ世に出ていないという状態。２つめは、すでに世の中でＡブームが起こっており、市場にＡが溢れている状態で、付加価値を付け差別化したＡ'を作り、売り出すことである。

差別化には、２つの方向があるという。上の差別化と水平の差別化である。前者は、Ａをより綺麗に、上手に、という方向の付加価値型。後者は、Ａとは全く異なるテイストのＢを出す。つまりＡ'という路線をとらない差別化である。

「差別化にはリスクがある。それは環境に左右されるということなんです。すごく簡単な例で言うと、白地の中にある黒は目立つよね。でも黒地の中に黒があっても目立たないし、気付かれないでしょ。黒の自分を目立たせようとしても、周りが黒ばっかりだったら難しい。類似したモノがいっぱいある中で似たようなモノを出しても注目されないんです」

ポイントは、類似品から頭一つ抜きん出ること。ようするにいかに人の印象に残るか、目立つか、ということにつきる。この戦略が成功すれば、「インパクトがある」「個性的」などと評価される。

もうひとつのポイントは、好感度である。好きか嫌いかにはっきり分かれる商品は、それだけ印象が強いということになる。好感度が高く共感や親近感を抱かせるモノが売れるのはもちろんだが、嫌いだけれど気になる、という位置づけでも、それだけ関心が高いということで評価の対象にはなるだろう。
「目立つかどうかは市場の環境に左右されるし、好き嫌いは客層に左右されますね。商品のターゲットが高校生か社会人か、男か女かということで違ってくる。どう転んでも売れるかどうかは相対的。絶対とはいえない。リスクがあるんです」

作り手はこのリスクと折り合いつつ、ある程度の売り上げを確保しなければならない。マンガの世界に限らずどこでも競争は激しい。その中で一定の人気を保つ秘訣はなんだろうか？
<img alt="identity.gif" src="http://bungei.chicappa.jp/images/identity.gif" width="400" height="311" border="0" />

「ブランド・アイデンティティっていう言葉、聞いたことがあるかな。ブランドって、繰り返し同じ質のサービスを提供し続けるところに価値がある。だから作り手は、良質の作品をコンスタントに提供し続ければいいわけです。でもそれだけじゃ、実際には飽きられちゃう。同じ様なモノが出てきたらそっちに人気がいってしまう。そこで何か新しい工夫をしないといけない。不変性と変化が同時に求められているんです」
しかし、アイデンティティを持つ一人の個人がつくる作品は、ある程度統一されているはずである。それがすなわちオリジナリティであり、評価が確立すればブランド・アイデンティティという強みになるわけだ。そのなかで、どのように変化を打ち出していったらいいのだろうか。

「難しいんですがね･･･。作品と自分はある程度切り離して考えた方がいいかもしれない。
作品のアイデンティティ＝自分のアイデンティティではないんです。作品は商品として割り切ることも必要です。そうでないと自分がぐちゃぐちゃになっちゃうから」
<img class="photol" alt="siri280.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/siri280.jpg" width="280" height="172" border="0" />

　若かりし頃の先生は、「個性個性ってみんな言うけど、不変の個性なんてあるはずがない」と突っ張っていたという。
「個性を打ち出すのでなく、あえて消してやろうと思った。消しても消しても残るものがあれば、それがホントの個性だろうと。それで描くたびにスタイルを変えてたわけです」

今は、さすがにやりすぎたなとちょっと後悔しているんです、と苦笑される。だが、驚くほど多彩多様な作品群が、そのようなアマノジャク精神の賜物であることは間違いない。

さて、変化と不変性を両立するにはどうしたらいいのだろう？　答えは、より深い個性を持つこと、だ。それは、自分なりの世界観、歴史観、思想と言い換えることもできる。

「だから、アンケート結果も順位は重要じゃないんです。今の世の中を自分なりにどう分析するか、自分なりの世界観を構築する手がかりにしてくれれば」

より深い個性を持つことは作り手として必要とされるばかりではない。主体的に生きていこうとするなら、誰もが持っているべきものだ。しかしプロの作り手の方々は、ブランド・アイデンティティを保持しつつ、つねにセンサーを働かせ、作品世界に磨きをかけている。先生の口調の端々に、プロ意識がなせる努力の痕跡がかいま見えた。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<div class=" author">【寄稿者　菊地】</div>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>ビッグ錠先生～マンネリ打破すべし～</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://report.bunka-kaigi.com/archives/2004/11/post_36.html" />
   <id>tag:bungei.chicappa.jp,2004:/report//2.183</id>
   
   <published>2004-11-04T01:31:30Z</published>
   <updated>2007-05-18T02:53:54Z</updated>
   
   <summary>2004年10月1・8・15日　三回分 ビッグ錠といえば、パチンコ漫画の草分けで...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="文芸特別講義2" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://report.bunka-kaigi.com/">
      2004年10月1・8・15日　三回分

ビッグ錠といえば、パチンコ漫画の草分けであり、料理漫画ブームの先端を切ったマンガ家としてあまりにも有名である。じつは筆者は『釘師サブやん』も『庖丁人味平』も読んだことがない。漫画にあかるくないので、不備な点が多々あると思いますが、お許しいただければ幸いです。

　初回、教室にあらわれたビッグ錠先生は、やわらかな関西弁のアクセントで話しはじめた。穏やかな初老の男性という印象だが、カジュアルなシャツやGパンがよく似合う。折り目正しくも、サラリーマンにはない自由闊達な空気を纏っていらっしゃる。
      <![CDATA[まずご自身がデビューした当時のこと。貸本屋が全盛だった時代から、テレビや映画が普及して貸本屋が途絶えていくまでの、学生達にとっては遙か昔に感じられるであろう社会状況が説明される。
「今で言うレンタルビデオですね、貸本屋は。一日働いて、帰り道でふらっと貸本屋に寄って青年漫画を一冊借りて読みながら寝ちゃう。そういうもんでした」

　高校生のときから貸本屋に出入りしていた。顧客に接し、大人の世界を垣間見てきた。客はまた読者でもあった。自分の漫画を読むのはこういう人たちなのか･･･という作り手の意識が育っていった。
デビュー作は、高校一年生のときに、貸本屋向けに描いた作品『バクダン君』だった。
  決してすんなりとマンガ家になったわけではない。貸本屋が衰退したあと、広告代理店「電通」で働きはじめる。広告業界の波に揉まれていくうちに、いつしか漫画への関心は薄らいでいた。「電通」時代は映画を山ほど観た。ちょうど日本は映画の全盛期を迎えており、映画関係の広告の仕事も多数入っていた。
「このとき暇さえあれば映画を観まくったのがよかったですねぇ。あとで青年漫画を書くことになるんですが、そのネタとして非常に役に立ったんです。映画のワンシーンとか俳優の動きとかね」
漫画に還ったきっかけは、文藝春秋から発売された『まんが読本』という新しいスタイルの本を手に取ったことだった。載っていたのは外国の漫画で、それまで日本の漫画しか知らなかった若者にはその絵が斬新に映った。初めて「イラストレーション」という言葉に触れた。それ以前は「挿絵」「イラスト」と呼ばれていたジャンルの仕事だった。

「昔は漫画っていうのは少年漫画が殆どだったんです。大人になったら漫画は卒業、小説に移行するものだと思われていた。それでもサラリーマンや労働者の人が読む、娯楽としての漫画の需要はあったわけで、貸本屋がそれをまかなっていたんだけど、どんどん潰れちゃったでしょう。でも大人も、読むんですよ、漫画。それで青年誌というのを出版社が出すようになった。内容は高校生から大人を対象としています。『ビッグコミック』とか『ヤング』ですね」

青年誌という新たな活躍の場を得た先生は、1971年『釘師サブやん』を「週刊少年マガジン」誌上で発表。パチンコを題材とした本作は大当たりとなり、漫画家ビッグ錠の本格的なキャリアがスタートする。
「広告業界にいるのもなんかつまらんなぁ、となってきてね。お客さんの顔が見えないでしょ。何しろ大組織で、自分が誰に対して商売しているのか分からなくなってくる。その点、マンガ家は読者の顔が見えますから。こういう人たちが読むようなのを描こうっていうのがはっきりしてますしね」
その後の活躍はご存じのとおり。『包丁人味平』『一本包丁満太郎』などの料理漫画も一世を風靡した。
「大宅壮一さんが主宰したマスコミ塾に通ってたことがあるんですが、そこで職人相手の取材術を学びました。彼らはとにかく無口でね、取材だインタビューだなんて言っても相手にしてくれない。酒と女の話を持ってくると、ようやく喋ってくれますね」

パチンコにしろキャバレーにしろ、現場に足を運び、その業界独特の空気を嗅ぐこと、これが作品を描くうえで一番重要だという。頭の中のイメージだけでは絶対に描けない。働く人たちの匂いを嗅ぎ、ともに体験してみること。そうやってはじめて「よし、これで描ける。これでいける」という自信が湧く。

描く段階でも苦心はある。食べ物をリアルに、かつ美味しそうに描くのは案外難しいものだ。その味や匂いまで見た人に伝わるにはどうしたらいいか、試行錯誤を重ねた。このときは「電通」時代にフードコーディネーターの仕事を見ていたのが役に立った。たとえば先生の描くラーメンは、麺の一本一本が今にもすすり上げられるのを待っているかのようだ。描写が仔細なわけではない。線の勢い、といったらいいだろうか。線の絶妙な力加減が、匂いや味までもを体現し得ているのだ。

『釘師サブやん』が受けたのも、パチンコ玉が主役というそれまでになかった漫画だったからといえよう。
「玉の動きを追うだけで気がついたらページが終わっていた。パチンコ玉が動くだけでドラマになるような漫画にしたかった」と仰る。玉が転がる躍動感、音、振動。それを静止画でどう表現するか。それはすなわち、パチンコの醍醐味をダイレクトに読者に伝えるということでもあった。

数年後にはベテランの域に達し、毎日こつこつと描き続ける日々が続いた。漫画家としての名声も、揺るぎない代表作もできた。だがいまひとつ面白くない。自分の描く絵に飽きてきていた。描いていてもつまらない。喜びがない。

58歳のときに、首を痛め一ヶ月の寝たきり生活を余儀なくされた。何も出来ない状態でひたすら考え抜いた結論は、仕事を一時休止し旅に出ることだった。行き先はニューヨーク。連れはなし。60を目前とした男性が一人ニューヨークに渡り、ハーレムを住処にして暮らし始めたのである。

何もしない暮らしが目的だった。ミュージカルや美術館を巡り、張り紙で見た語学教室に通った。黒人や白人や南米出身の知り合いができ、「ジョー」と呼ばれて親しまれた。言葉が不足な分は絵で補った。あっというまに仕上がる似顔絵に彼らは感嘆の声を上げた。

「どうにも描きたくなってくるんですわ。何か描きたい、描きたい思ってると、子どものころを思い出しましてね。そうだ、大阪にいたときもこんな気持ちで描いてたんだなあと」

意識の下で、新しい作品へのインスピレーションが膨れ上がっていた。風船を針でつつくがごとく、それが噴出したきっかけは、朝のニューヨークのカフェでの何気ないワンシーンだった。

「婦人警官が、バーンとドアを開けて入ってきたんです。あっちの警官はスタイリストがついてるんちゃうかと思うくらい格好良くて、堂々としていて。ああかっこいいなぁ、思いましてね。あまりにも印象的で、読んでいた新聞に走り描きしたんです」

新聞の余白にラフなタッチで書かれた人物や風景は、思いがけないほどNYの空気を色濃く醸し出した作品になった。

それからは新聞が先生のクロッキー帳代わりになった。鉛筆ではなく必ずマジックを使う。新聞紙にマジックで描くときの感触が好きなのだという。インクのにじみ具合などが面白いのだ、と。それから時間をかけないこと。眼で捉えた瞬間を、できるだけ素早く紙に写し取ることが大事なのだ。だらだら時間をかけると、勢いのない弱い絵になってしまう。

描きためた作品を集め、海外や日本で個展を開いてみると、新たな作風として大きな反響を呼んだ。ニューヨークで再生を果たしたビッグ錠は、再び漫画を描きはじめた。
先生は最後にずしりとくることを仰った。

「手が慣れてくると絵は綺麗になる。小奇麗な感じにはなるんだけど、面白さがなくなる。このニューヨークのスケッチもそうですけど、初期のころの方が絵として強さがあって、面白いんですよ。線とかは下手くそだけど。あと、個展に出し始めたらそれを意識して描くようになって。そうなったら駄目でしたね」

マンネリ打破すべし。だが、先生のように長年現役で活躍されているプロで、それを実践できている漫画家はどれほどいるのだろうか。これは漫画家に限らず、すべての創作者に当てはまることなのだった。
　<div class=" author">【寄稿者　菊地】</div>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>水口哲也先生 第二回講義</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://report.bunka-kaigi.com/archives/2004/10/post_35.html" />
   <id>tag:bungei.chicappa.jp,2004:/report//2.182</id>
   
   <published>2004-10-29T02:03:47Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:02:52Z</updated>
   
   <summary> 　ゲーム好きの方なら、少し前に発売された「Ｒｅｚ」というシューティングゲームを...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="文芸特殊研究1" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://report.bunka-kaigi.com/">
      <![CDATA[<img class="imagr" alt="rez00.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/rez00.jpg" width="250" height="188" border="0" />
　ゲーム好きの方なら、少し前に発売された「Ｒｅｚ」というシューティングゲームをご存じだろうか。シューティングゲームとは、目の前にパッと現れたものをかたっぱしから撃って得点にしていくゲームである。人間の反射神経という、極めてプリミティブな本能をデザインしたつくりで、根強い人気を保っている。

「Ｒｅｚ」は、ＳＥＧＡが構想から完成までおよそ３年を費やしたアート性の高いゲームである。アメリカよりヨーロッパで売れたという事実も、「Ｒｅｚ」の特性を表わしているかもしれない。

プロジェクトの中心人物は、水口先生である。ぎりぎりまで妥協を排しつつ、完成まで10人あまりのスタッフを引っぱり続けてきた苦労は、相当なものだったという。

反射神経を満たすだけでは物足りない、というのが出発点だった。何か他の要素をプラスした、新しいゲームにしたい。ヒントはケニアにあった。ケニア人の間でよくするというゲームの映像を見せてもらった。若者たちのグループが酔っぱらったように歌い踊っている。]]>
      <![CDATA[「始めは皆が集まって普通にしゃべっている。いつのまにか手拍子が始まり、次に踊り出すヤツが現れる。すると誰かが掛け声をかけて、それに反応して歌が始まる。これをコール・アンド・レスポンスといいます。誰かがコールして誰かがレスポンスする」

コール・アンド・レスポンスが幾重にも発生するとどうなるか？　その場にいる人々の感情が、まとまりつつうねりを帯びてスパイラル状に引き上げられていく。このような状態を英語ではインターアクティブと呼ぶ。例えばクラブに集う若者たちの様子を思い浮かべて欲しい。集団陶酔といったらいいのか。グルーヴ感がその場を満たし、皆が気持ちよくそれに浸っている。
<img class="photol" alt="rez17.jpg" src="http://www.akuzawa.net/TA/archives/rez17.jpg" width="250" height="200" border="0" />

「このグルーヴ感をゲームに落とし込めないかと思ったわけです」

　次のヒントはスイスのクラブで見つけた。ガンガンに響くテクノ。音と光と色が、あたかも洪水のように押し寄せ、その場をのみこむ。音には色があり、光にも色があるということを知った。そこで行き着いたのは、画家Ｖ・カンディンスキーの「シン・シナスティジアム（共感覚）というコンセプトである。

「カンデンスキーは音楽を聴きながらキャンパスに向かったそうです。音が色を連想させる、その働きを使って描いたのが彼の絵です。筆の動きもリズムも、音から連想していく。そういう感覚が我々には備わっている。じゃあこれをシューティングゲームに置き換えてみよう、と」

しかし、実現は困難をきわめた。モノをつくるには、それがどのようなモノかをまず言語化できなければならない。だが人間の生理的な気持ちよさやグルーヴ感というのは、言葉で説明できない感覚だ。
「なぜ説明できないのか、理由を探すところから始めました。といっても理由の究明が目的ではないんですね。僕たちがやったのは、具体的な体験を１つ１つ積み上げていくこと。あるシチュエーションを設定し、人間ってこういうときはこうするものなんだ、ということを体験的に知る。それしかないんです」
体験の集積から、シチュエーションとアクションのパターンを割りだしていく。気の遠くなるような作業である。

「実際の製作に至るまでの段階をプレ・プロダクションというのですが、これに２年から２年半かかりました。その間は正直、自分自身でもがいてましたね。スタッフの中にはしびれを切らして、もうこれでいっちゃいましょうよ、と言うヤツも出てくる。でもここで妥協すると、ゲームデザインの基本がなってないまま製作になだれ込むことになる。それだけは避けたかった」

ゲームデザインの基本は、映画制作にたとえれば脚本のようなもの。ホンが確定していない段階で撮影に進めば、多くの作品は頓挫し、失敗作となる。人間でいえば、骨。骨の脆い人間は、いくら筋肉を付けたところで骨折はまぬがれない。

「ゲームでも、いくらビジュアルや音楽がよくても、骨がしっかりしていないと楽しさの限界が限られる。ある程度は良い気持ちになれるけど、その閾値が低く設定されてしまう。だから基本ができるまではデザイナーには一切デザインさせなかったし、音楽のほうも手をつけなかった。中途半端に形が出来てくると、一番大事な基本型がわからなくなっちゃうんですよ」

苦労の末、原型が完成。そのあとは早かった。10ヶ月の製作期間を経て、「Ｒｅｚ」は世に出る。製作に入ってから、新たに加えた要素もあった。音と光に、振動をプラスさせたのだ。こうして、目と耳と体で体感できるゲームが登場した。

試作第一号は椅子にバイブレーダーを付けたが、コストがかかりすぎた。最終的に、コントローラーにバイブレーダー機能を付加することで落ち着いた。プレーヤーの手から振動が体全体に伝わるしくみだ。その振動は画面上の動きや音と合致しており、これまでのゲームよりワンランク上の臨場感を味わうことができる。

「商品開発は、人間の欲望をいかに再デザインするかにかかっているわけです。それにはまず人間の欲望がどういうものかを知らなければならない。どうやって知るかというと、体験するしかないんです。そして体験したものを流さないこと」
<img class="imagr" alt="desire.gif" src="http://www.akuzawa.net/TA/archives/desire.gif" width="227" height="240" border="0" />

水口先生は、ゲームづくりのために自分の感情を仔細に検証していた時期があるという。何故そのような感情が起こったのか？　まず理由を考える。映画を見て感動すれば、言葉で表現して書き付ける。感情という曖昧なものは、言葉にすることである程度整理できる。大事なのは「ああおもしろかった」「怖かった」で済ませないことだ。

「今はちょっと疲れちゃったのでやってないんですけど、でもこれはお薦めですよ。もしこの授業でレポートを出してもらうとしたら、テーマは『自分の人生の中で最も感動した体験を１つ挙げ、それをきわめて客観的に分析しなさい』にしようかと思ってます」

人生の中で最も感動したこと。私の頭のなかに様々な画面がシーンが浮かぶ。あれか、それともあれかな、しかし一番感動したこととなると･･･。

「課題、ほんとに出すかわかりませんよ。たぶん出さない。だって一番感動した体験ってなかなか他人に伝えられないものでしょ。そんな大事な体験を預かるほうも大変だし、そんな責任僕には持てないと思うし」

学生たちはややほっとした様子だ。しかし、日常生活のなかでいちいち感情を分析するのもかなり疲れる作業だろう。ゲームクリエーターという職種の奥深さをあらためて知らされた。時代を読む感性と、緻密に構築された理論、ビジネスとしての計算と交渉力、さらにチームをまとめる協調性とリーダーシップ。水口先生はそれらをまんべんなく備えておられるように見受けられる。

「みんな将来はものをつくる人になりたいんだよね？」

先生の問いかけに、曖昧に頷く学生たち。現実は厳しそうである。
水口先生の次回の講義は11月になる。学生たちも参加して、ワークショップのようなものを行う予定だという。　（10/21）

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<div class=" author">【寄稿者　菊地】</div>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>水口哲也先生 第一回講義</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://report.bunka-kaigi.com/archives/2004/10/post_34.html" />
   <id>tag:bungei.chicappa.jp,2004:/report//2.181</id>
   
   <published>2004-10-22T08:35:33Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:09:00Z</updated>
   
   <summary>　10／14　　水口哲也先生　　講義内容 　前回までのしりあがり先生はしばらくお...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="文芸特殊研究1" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://report.bunka-kaigi.com/">
      <![CDATA[　10／14　　水口哲也先生　　講義内容

　前回までのしりあがり先生はしばらくお休み。今回と次回は、ゲームクリエーターとして活躍されている水口哲也先生をゲストに迎える。
<img class="photor" alt="mizu.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/mizu.jpg" width="300" height="252" border="0" />
　水口先生は1990年に文芸学科を卒業、ゲーム会社SEGAに入社した。13年勤続し、多くの重要なプロジェクトに関わっていくなかで、独自の理論を固めてきた。去年から独立し、ますます多忙な日々を送られている。

　在学中は、メディア美学を中心に学んだ。それをゲームの演出論や製作論に展開していったという。
　「メディア美学のなかで、ひとつ忘れられない言葉に遭ったんです。これまでの僕の活動の基本にもなっているんですが」

　]]>
      <![CDATA[その言葉とは、カナダのメディア学者M・マクルーハンの「すべてのメディアは、人間の感覚の延長線上にある」。

　たしかに、メディアに限らず、人間の生み出した道具はすべて感覚や身体機能の延長線上にあるといっていい。車は足だし、テレビは視覚である。だがメディアの発達につれ、ハード面はマクルーハンの言葉が当てはまるものの、ソフト面ではそうはいかなくなってきた。ハード面とはメディアにおける物体で、テレビの受信機やゲーム機の本体といったもの。ソフト面はコンテンツとも呼び、テレビであればプログラム、ゲームであればゲームソフトというように、中身や内容を指している。

　長年コンテンツの製作を手がけてきた水口先生は、こう断言する。「全てのコンテンツは、人間の欲望、欲求、本能の延長線上にある」。

　コンテンツはエンターテイメントであり、基本はいかに人を愉しませるかという点にかかっている。作り手からいえば、いかに人間の欲望、欲求、本能を再デザインするか？ということだ。ちなみに、entertain　という動詞には、人をもてなすという意味もある。コンテンツにも、もてなし感が重要だと水口先生は仰る。それはユーザーを楽しませたい、喜ばせたいという作り手の心意気といえるだろう。水口先生はつねにその心意気を持って果敢に実践し、大きな成功をおさめた方である。

　90年代は、SEGAの中で、映画やミュージックビデオなど映像としてのＣＧの製作に携わった。その後リアルタイムのＣＧ、つまりゲーム製作に進むが、当時（およそ11年前）のＣＧの技術は、アニメーションの技法をそのまま取り入れたものであった。アニメーターが１枚１枚描き、それをプログラマーが組み立て、リアルタイムのアニメーションに仕立てていたのである。

　ここで、94～95年に製作された「SEGAラリーチャンピオンシップ」というゲームと、その進化の過程をＤＶＤで見せていただいた。発売当初は、映像に張りぼて感があり、画面上の動きもぎこちない。96年にはＣＧの技術革新があり、かなり滑らかで自然な動きになる。98年には、実際にバイクに乗っているような感覚を味わってもらおうと、プレイヤーが座るサドル付きのものが発売された。これが評判になり、ゲームセンターで大ヒットする。

　「それまではずっと、生理的なエンターテイメントを目指してました。バイクに乗ってる感覚とかは体感的な気持ち良さですよね。でもここでふっと考えた。ゲームで人を感動させられないか？　と。ゲームで人を泣かせたり笑わせたりはできないものかと。感覚の延長線上だけではあきたらずに、他の要素を加えたくなったんです」
<img class="photol" alt="blue_image.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/blue_image.jpg" width="250" height="176" border="0" />

　そんな逡巡が、ゲームセンターから家庭用ゲームソフトの製作に移る動機となった。ゲームに感動の要素を盛り込むということで思いついたのは、歌、踊り、ストーリーといったミュージカルの構成要素である。こうして「ＳＰＡＣＥ　ＣＨＡＮＮＥＬ」の製作が始まった。

　構想は、持ち込みのＣＧからヒントを得た。宇宙放送局の人気レポーターの女の子（名前はうらら）を主人公に、ビデオクリップの感覚で、映像と音楽を一体化させる。97年に作られたそれを実際に見せてもらうと、主人公の女の子の感じが良くなかった。水口先生が仰るように「クールを目指しているのはわかるんだけど･･･、裏目に出ちゃっていますね。女性受けも悪かった」のだった。

　そこで、改良すべくさまざまな試みがなされた。カギは、プレイヤーの感覚をチアーする（励ます、高揚させる）要素を盛り込むことだった。具体的には、多数の女性にインタビューし、好ましいうらら像を探った。パントマイムをしているアーティストを講師に呼び、社内でワークショップを開いた。

　「なぜパントマイムかというと、人を感動させるメカニズムを解明するためです。たとえば、誰でも笑わせられる方法はあるか？　逆に誰でも恐怖させられる方法は？　答えは、あります。これもワークショップで体験してわかったことです」
<img class="imagr" alt="reason.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/reason.jpg" width="285" height="125" border="0" />
　笑わせるには、いったん場に緊張感を生ませることが重要だ。たとえば目の前の人が急に動作を停止する。そのまま30秒も静止すると、見ている人は「いったいこの人どうしちゃったの？」と不安になり、緊張してくるだろう。そこで突然、笑いが発生する。場の緊張をほぐすために、生理的必然性に伴って発生する笑いだ。

　誰でも恐怖させる方法は、たとえば大勢が、一人を標的にして憎しみの目で睨みながらじりじりと近寄っていく。標的にされた人は、必ずもの凄い恐怖感を味わうという。

　「僕が言いたいのは、人を感動させるメカニズムは存在するんだ、と言うことです。物事には必ず理由がある。人の感情が動くにも必す何らかの理由が存在している。作り手は、そのメカニズムを知る必要があるんです。」

　ただし、感情のメカニズムに沿った商品が必ずしもよく売れるとは限らない。ヒットという現象を生むには、時代の波長に合っているかどうかという、もう一つの条件が存在するためだ。「ＳＰＡＣＥ　ＣＨＡＮＮＥＬ」は、そこそこ売れたが予想を超えた大ヒットにはならなかった。しかし、海外のＭＴＶがうららのキャラクターを使用したいと申し出るなど、多方面での反応は良好だった。

　「今日の僕からのメッセージは、全てのコンテンツは、人間の欲望、欲求、本能の延長線上にある。人を感動させるメカニズムは存在する。という２点です。次回はＲezというシューティングゲームの製作過程を見ていきたいと思います」

　教室いっぱいの学生たちの眼が輝いた。製作されたゲームソフトよりもさらに、水口先生はその存在感で人をチアーさせる方であった。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<div class=" author">【寄稿者　菊地】</div>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>しりあがり寿先生　第一回講義</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://report.bunka-kaigi.com/archives/2004/10/post_33.html" />
   <id>tag:bungei.chicappa.jp,2004:/report//2.180</id>
   
   <published>2004-10-14T02:33:43Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:04:16Z</updated>
   
   <summary> 「こういう形での講義は初めてなので･･･」 　大勢の学生の前で、やや緊張気味の...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="文芸特殊研究1" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://report.bunka-kaigi.com/">
      <![CDATA[<img class="photol" alt="KOTOBUKI.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/KOTOBUKI.jpg" width="264" height="270" border="0" />
「こういう形での講義は初めてなので･･･」

　大勢の学生の前で、やや緊張気味のしりあがり先生。自己紹介から始めますね、と黒板に向き直る。チョークを手にするやいなや、目にもとまらぬ速さで素描する。あっという間に、鉄腕アトムやウルトラＱが黒板に踊っていた。

 1958年、静岡に生まれた。幼稚園の頃に鉄腕アトムが、小学２年のときにウルトラＱが世に出る。ほどなく怪獣ブームとなり、ウルトラマンやバルタン星人が日本中の子供たちを魅了した。７０年には大阪万博が開催。同じ年にビートルズが解散したのも、当時１２歳だった先生には大きな事件だったらしい。

　]]>
      <![CDATA[中学校時代は特撮に興味を持つ。父親が家具屋だったため、バイクの後ろに乗ってよく工事現場に連れて行ってもらったそうだ。高校では美術部に入学。熱中したのはもっぱら漫画で、山岸涼子などの少女漫画も好きだったという。ここで瞳キラキラの少女が黒板に描かれ、学生達の笑いを誘っていた。さすがにどのイラストも、即興で描いたとは思えない上手さである。

　高校卒業後は、漫画家、映画監督、イラストレーター、ＣＭディレクターなどになりたかった。絵が好きだったが、いわゆる画家向きではなかった。要するに人気者になりたかったんだよね、と笑いながら仰る。芸大を受験するも失敗。そこしか受けなかったので、仕方なく一年間、土方などの肉体労働にいそしんだ。翌年、多摩美術大学に入学した。

　大学生として過ごした７０年年代後半、世の中に大きな動きがあった。音楽ではパンク、テクノなどのニューウェーブが台頭し、一部の若者のファッションに大きな影響をもたらす。美術では、写真のような精巧な実写が評価される一方、いわゆる「ヘタウマ」の概念が生まれ、誰にでも描けそうで描けないオリジナルな表現が支持されていく。

　「大学では変な人が多くて、どうやってみんなをアッと言わせるかみたいなことばかり考えてましたね」個性的な友人に囲まれ、自由な感性を磨いていったが、「卒業したら働かないと食っていけない」と、キリンビールに入社した。

　会社では、パッケージデザイン、ＣＩ、宣伝を手がける。どの仕事も面白く、結局１３年間キリンビールに居続けた。勤務の傍らこつこつと漫画を描きため、８５年に『エレキの春』を出版する。時代は「ヘタウマ」から「シュール」へ向かっていた。吉田戦車などが出てきた頃である。

　３６歳が転機となった。このまま勤続すれば管理職という時期だったが「部下を怒れないんだよね。恨まれそうで」という理由で昇進を断念、漫画で独立しようと決意し、辞職する。一時期は有限会社を設立して収入を補いつつも、しりあがり寿という漫画家の名は、瞬く間に世の中に浸透した。独特の作風で数々の賞を受賞し、その知名度、人気は今や揺るぎないものになっている。

　さて、そんなすごい先生がどんな授業をやってくれるのか、学生達の興味津々な期待に先生は丁寧な答えを用意して下さっていた。

　「６回の授業で何をやろうか、ずいぶん考えたんですけど、どう描くかよりも何を描くかについての授業にしようと。どう描くかっていうのは、キャラクターとかストーリーとか具体的で技術的なこと。何を描くかっていうのは、テーマとか、自分の描きたいのはギャグかホラーかという、描くときのモチベーションになるものです」
　何を描くか、を考えるにあたって必要な条件は３つだという。
　１つは、経済性。つまり売れるかどうかということ。「これで食っていかなきゃいけないから、売れることは大事です。でも、売れれば何でもいいかといえばそうでもない。売れるというのはイコール大半の人に分かる、ということで、世の中の大半の人には理解力やセンスが欠けているからです」

　芸術的価値の分からない多数派の人々を、子どもに置き換えてみよう。子どもは常に甘いモノをほしがる。甘いモノを与えていれば彼らはゴキゲンなのだ。その人達が喜んで受け入れる作品ばかりを量産し続けるのは、子どもに甘いモノを欲しいだけ与えるのと同じ側面がある、と先生は仰る。

　「あるいは、バカ、としちゃう。酷いよね。でも、そういう人達をとりあえずここではバカとしましょう。バカでない人が、沢山のバカのためにバカでもわかるものを作る。ずーっとそれが続くどうなるか？　バカがバカでなくなるチャンスが永久に失われる。さらにバカでない人までも、売れるためにバカに同調していく。世の中バカがドンドン増えていく。これを僕はバカのサイクルって呼んでます」

　２つ目は、社会的価値である。例えば、誰もやったことがないものをやる。その時代、その社会が必要としているテーマを表明する。売れることとは別にそういう作品を作ることも重要である。社会的価値のある作品は、ヒットするかわりに何々賞を受賞したりして評価されることが多い。

　３は、「これが一番大切なことなんだけど」と先生が強調する、自分にとっての価値、である。自分が描きたいかどうか？　売れなくても評価されなくてもまだ描きたいか？　表現への根元的な欲求の強さは、そのまま描くことへのモチベーションへと昇華する。まずこの衝動がなくてはならない。売れるとか、社会的価値云々は二次的な問題である。
<img class="imagr" alt="respect.jpg" src="http://www.akuzawa.net/TA/archives/respect.jpg" width="320" height="121" border="0" />
　「それぞれ得られるものは違います。１は、お金。２は…、リスペクトかな。３は、心の平安。この3つが揃うのはなかなか難しいよね」とりあえず、どれか一つの条件を満たせば人は描き続けられるものなのだ。

　次回から、しりあがり流の講義が本格的に開始される。キリンビールでの消費者リサーチのノウハウを生かし、それぞれテーマごとに学生にアンケートをとり、各自で統計、分析、ディスカッションを試みる予定だ。最終回はゲストを招く。次回からの展開が楽しみである。　　　　　　
　　　　
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<div class=" author">【寄稿者　菊地】</div>

<b>過去の関連記事</b>
　　　　　　　　
　　　　<a href="http://www.akuzawa.net/TA/archives/000330.html">漫画家、しりあがり寿氏</a>　　　　]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>ＣＭプランナー野澤友宏氏</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://report.bunka-kaigi.com/archives/2004/08/post_32.html" />
   <id>tag:bungei.chicappa.jp,2004:/report//2.179</id>
   
   <published>2004-08-02T16:33:09Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:04:45Z</updated>
   
   <summary> ホストは湯山先生。授業内ゲストは新進気鋭のＣＭプランナー、コピーライターとして...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="文芸特殊研究1" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://report.bunka-kaigi.com/">
      <![CDATA[<img class="photor" alt="nozawa210.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/nozawa210.jpg" width="220" height="160" border="0" />
ホストは湯山先生。授業内ゲストは新進気鋭のＣＭプランナー、コピーライターとして活躍されている（<A HREF="http://www.tcc.gr.jp/award/2002/c4.php">2002年度、TCC新人賞受賞</A>）<A HREF="http://www.dentsu.co.jp/idx-swf.html">電通</A>の野澤友宏氏。まず、野澤氏の手がけたＣＭを集めたビデオを全員で観る。<A HREF="http://www.matsukiyo.co.jp/index2.html">マツモトキヨシ</A><A HREF="http://www.matsukiyo.co.jp/what/what_cf.html">「現金ポイントカード篇」</A>、オロナインH軟膏<A HREF="http://www.otsuka.co.jp/adv/top.html">「傷だらけの青春篇」</A>（<A HREF="http://www.otsuka.co.jp/">大塚製薬</A>）、<A HREF="http://www.hakugen.co.jp/products/osusume/haru_cm.html">風水彩香</A>「新芳香剤　金運/厄除け開運篇」
（<A HREF="http://www.hakugen.co.jp/">白元</A>）どれも頻繁にオンエアされているＣＭである。どの作品も基調にそこはかとないユーモアがある。また、同時に懐かしさを感じさせる映像の作りがなされている。]]>
      <![CDATA[まず、湯山先生による野澤氏へのインタビュー。東大の大学院でどちらかといえば地味な国文学を専攻していた野澤氏が、どういう経緯で広告という似ても似つかない華やかな業界に入ったのか、その周辺から湯山先生の質問は始まった。その後、ＣＭを撮影する監督を選ぶ時の決め手、アイデアの作り方、クライアントとの関係や広告制作における裏話的なものも野澤氏はインタビューの中で披露してくれた。
<P>　基本的には、湯山先生の質問に一つ一つ誠実に答えられ、それほど口数が多くはないという印象を野沢氏からは受けた。しかし、話を展開する上で必要とあれば、正確なデータ、もしくは洗練された実例や具体例が次々と出てくるのがいかにもプロの広告プランナーという感じがした。また、クライアントに対して何百何千回ものプレゼンテーションを経験されているからだと推察されるが、話の内容に厚みというか立体感を持たせるのがすごくうまいと感じた。聞く者のこころをぐいぐいと、ぐいぐいとつかんでいく感じだ。<img class="photol" alt="nozawa250.jpg" src="http://www.akuzawa.net/TA/archives/nozawa250.jpg" width="250" height="188" border="0" />

<P>　次に、学生代表３人によるインタビューが行われた。インタビュー終了後、野澤氏に教室から大きな拍手が送られた。普段なら授業はここで終わりだが、インタビュー終了後、ある学生が自分で携帯電話のマナー広告の広告プランを作ってきたので是非観てほしいという申し出があった。野澤氏も見てみたいとおっしゃってくれたので、その学生はすぐに簡易プレゼンを行った。それから教室にいた他の学生と湯山先生を含めて、その広告をよりよくインパクトあるものにするにはどうしたらいいか、ということが真剣に話し合われた。野澤氏は黒板にＣＭコンテの案を絵入りでわかりやすく書いてくれた。次に教室全体の意見を集約しつつも、ＣＭ制作のプロの立場から具体的な提案とアドヴァイスをくれた。その中には、アイデアをヴィジュアライズし、余分なものや見るものに混乱を呼び起こすような情報を削ぎ落とし、訴えたい点を強調しインパクトのあるものにしていく、という一連のプロセスがあった。そして、最終的には学生の広告プランを、より洗練された一つの形として提示してくれた。その手際は非常に鮮やかで、再び教室は大きな拍手に包まれた。
<P>　ちなみに授業後、学生に課された課題は「全国豆腐普及協会」もしくは雑誌「Switch」の広告、または広告プランを制作することである。]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>飯沢耕太郎氏　～デジグラフィとは何か～</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://report.bunka-kaigi.com/archives/2004/07/post_31.html" />
   <id>tag:bungei.chicappa.jp,2004:/report//2.178</id>
   
   <published>2004-07-27T04:11:32Z</published>
   <updated>2007-05-24T05:49:20Z</updated>
   
   <summary> 　前期の授業もいよいよ今日で最終回。飯沢先生の講義も今回で終了とあってか、教室...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="文芸特殊研究1" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://report.bunka-kaigi.com/">
      <![CDATA[<img class="imagr" alt="digigraphy.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/digigraphy.jpg" border="0" />

　前期の授業もいよいよ今日で最終回。飯沢先生の講義も今回で終了とあってか、教室はいつにもまして満席状態である。席がなく、立ったままノートをとる学生もいた。

　「これまではアナログカメラの写真と写真家について講義をしてきました。でも皆さんご存知のように、ここ数年、フォトグラフィの世界に大きな変化が起こっているんですね」　

   いわゆるデジカメの普及である。写真に限らず、映画など映像表現全般にいえることだが、デジタル化の波が急激に押し寄せているのだ。思えば、カメラ付き携帯電話の登場からわずか３年余りしか経っていない。にもかかわらず、ケイタイを片手で固定し写真を撮るあのポーズは街ですっかりお馴染みになった。 2002年にはデジタルカメラの出荷量がアナログカメラを上回っている。当然の流れとして、デジタルカメラを愛用する若い写真家が増え、印画紙のかわりにパソコンの画面上で作品を発表するアーティストも出てきた。]]>
      <![CDATA[<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4120034887/alternative-22/ref=nosim" target="_blank"><image class="imag" src="http://images-jp.amazon.com/images/P/4120034887.09.MZZZZZZZ.jpg" border="0"></a>　「じつは僕はデジカメというやつに懐疑的だったんです。アナログ世代だから、フィルムにどうしても愛着がある。でもここまでくるとさすがに無視できなくなってきた」と仰る飯沢先生はごく最近、『デジグラフィ～デジタルは写真を殺すのか？～』（中央公論新社）を出版し、この問題について詳しく論じている。
　表題の「デジグラフィ」は飯沢先生の造語である。「デジタル写真という言葉はどうにも据わりが悪いというか、しっくりこない」という違和感を抱き続け、「本来は別物である写真とデジタルをくっつけて呼ぶというのはなんか、変でしょ」と思い至った。そこで、フォトグラフィ（photography）に対応する言葉としてデジグラフィ（digigraphy）をつくったという。

　先生がデジタルカメラを使い始めたのは2002年、「写真新世紀」というコンテストが十周年を迎えたときだ。創立以来審査員を務めていらした先生に、主催者のキャノンが記念品として自社のデジタルカメラとプリンターを贈呈した。それで写真を撮り、画像をプリントアウトしてみたところ…。

　「ショックでした」。アナログカメラと殆ど差がない、ひょっとするとそれよりクオリティの高い画像がボタン一つでプリントアウトできるという事実に、これまでアナログ写真が築いてきた技術は、あの苦労はなんだったんだという気にさせられたという。

<img class="photor" alt="degital.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/degital.jpg" width="250" height="181" border="0" />
　アナログカメラとデジタルカメラの違いがどこにあるかというと、それはフィルムの部分にある。デジタルカメラにはフィルムの替わりにＣＣＤという半導体を用いる。ＣＣＤは画像を電子信号に変換し、数値化して記憶する。このメモリーを記録しておきコンピューターに読み取らせる。すると数値が画像に変換され、パソコン画面上やプリンターに出てくるというわけである。

　最終的に私たちが目にするものは写真という物質である。これはアナログもデジタルも違いはない。ただ、アナログ写真の原形はフィルムという物質であるのに対し、デジタル写真の原形は電子信号という実体のない非物質的記号である。この非物質性がデジグラフィの大きな特質なのだ。たしかにそう言われてみると、アナログ写真に感じるある種の安定感が、デジタル写真には欠けるような気がする。　
　デジグラフィの特徴は５つ。改変性　現認性　蓄積性　相互通信性　消去性　である。

　一つづつ説明すると、は画像データーの変更や組み替えが容易にできるということである。アナログ技術では大変な手間がかかる加工も、クリック一つでおしまい。かつては暗室で何時間もかかった作業が、である。しかしその手軽さは、写真の真実性を希薄にした。海外の新聞社がねつ造写真を掲載した事件など、特に報道写真の分野で弊害を生んでいるという。一方、アートの写真は真実性が第一義ではないため、改変性を利用して写真をより独創的にしようとする写真家もいる。
<img class="photol" alt="digital2.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/digital2.jpg" width="250" height="186" border="0" />


　は現場で画像を確認できるということである。例えばスポーツ写真では、いわゆる決定的瞬間というやつがあり、それを写すのがカメラマンの使命ともなっている。アナログでは撮った結果をその場で確認できない。もし決定的瞬間を撮り逃していたらおおごとである。だから失敗に備えて余分に撮り貯めするなどの工夫が必要だった。デジグラフィでは、どうしても逃せない一瞬を捕まえようと思ったら、いちいちシャッターを押すまでもない。ビデオカメラのように機械的に連写しておき、現場でその映像を確かめながらこれというものを選べばよいのだ。失敗を恐れる必要はなくなったが、やはり撮影方法の違いからだろうか、デジグラフィの写真には、決定的瞬間に値する緊張感が欠けると言われる。

　ＣＤログで大量な画像をコンパクトに保存できるようになったことを指す。ただし、ＣＤログとて永遠に壊れない訳ではない。一説に寿命は30年と言われ、寿命が来れば磁気データーは自動的に破損するかもしれないのだ。さらに数値を画像化するためのメモリー読み取り装置が必要で、この装置の方に異変が起きたらＣＤログはただの金属の塊と化してしまう。このようなことを考え合わせると、印画紙に転写した写真の方が保存性は高いかもしれない。


　今や世界中を網羅するインターネットのことである。インターネットにより、画像を大量に、即時に、正確に送受信できるようになった。これは画期的なことだが、ネットの世界は膨張しつづけ、現実から遊離してもう一つの世界を作ってしまっている。擬似現実をあたかも現実と錯覚する危険は、多くの人が思い当たるだろう。

　ボタンで画像を一瞬のうちに、簡単に消去できるということ。所詮メモリー内のデーターだから可能なことで、アナログではこうはいかない。消去するには、フィルムを焼くなり何らかの手間がかかるし、物質だから全くゼロに還るわけではない。
<img class="photor" alt="digital3.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/digital3.jpg" width="265" height="223" border="0" />

総括すると、デジグラフィの性質は、消去可能の儚さ、脆さ、非物質的な不安定感といえる。表現手段として考えるときこれらは欠点にもなる。しかし逆手にとって長所ととらえ、デジタルならではのテイストを打ち出すこともできるだろう。

　ひととおり講義が終わり、「では実際に見てみましょう」と、インターネット画面がスライドに映しだされた。先生はパソコンを操りながら、ｗｅｂサイトで作品を発表しているアーティストを紹介された。最近このてのアーティストは多いが、その中でも目立った活躍をしている三人、<a href="http://www.artbow.com/">小林のりお</a>、<a href="http://www.dep.sme.co.jp/uzi/">内原恭彦</a>、<a href="http://www.anore24.com/">永沼敦子</a>の作品を目にすることができた。

　検索すればアドレスが見つかると思うので、ぜひ見てみてください。それぞれ素敵なデジグラフィです。私はやはり、フォトグラフィが好きですが…。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<div class=" author">【寄稿者　菊地】</div>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>志賀公江氏「血と毒」</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://report.bunka-kaigi.com/archives/2004/07/post_30.html" />
   <id>tag:bungei.chicappa.jp,2004:/report//2.177</id>
   
   <published>2004-07-18T16:32:50Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:22:55Z</updated>
   
   <summary> 私は何故、芸術という言葉の響きに魅せられ、文章を書き続けているのだろう。 　 ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="文芸特別講義1" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://report.bunka-kaigi.com/">
      <![CDATA[<img class="photol" alt="shiga_sensei.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/shiga_sensei.jpg" width="300" height="192" border="0" />
私は何故、芸術という言葉の響きに魅せられ、文章を書き続けているのだろう。
　
　歩みを止め、佇むとき、私は決まって、ギリシャ神話の鳥人・イカロスのことを考える。彼は、周囲の人々にとっては信仰の対象に過ぎなかった、太陽という存在の実存を解き明かそうとして失敗し、挫折と孤独の中、空から失墜せざるを得なかった。私のやっている行為は、イカロスの直面した現実から目を反らし、その結末を忌諱しているに過ぎないのか。
　
　蝋で固められた羽根のように、自分の背中に括り付けられたその儚げなる「芸術」を、私は不意に、打ち壊してしまいたい衝動に駆られる。破壊され、粉々に砕け散った芸術の破片を、私の足は執拗に踏み付け、蹴り飛ばす。だが、暫くすると、私は踏みつける足を止め、再びそれら残骸を組み立て始める。蝋の羽根であれ、より強く補強し、羽ばたき続ければ、いつかは実物の太陽に到達できると考えた、夢想家イカロスの如く。
　
　２００４年７月１２日。今回は、前期を通じて文芸特別講義のチーフ講師を務められた、志賀公江先生による締め括りの授業が行われた。「漫画と表現規制」というコンセプトのもと、前期は計６名の特別講師の先生が、表現者のたまご達の前で、表現と芸術論を語られたことになる。

　
　]]>
      <![CDATA[<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4575722510/alternative-22/ref=nosim" target="_blank"><image class="imagr" src="http://images-jp.amazon.com/images/P/4575722510.09.MZZZZZZZ.jpg" border="0"></a>本年度前期、当講義のアシスタントを務め終え、各先生方のお話の中で、一貫して私の印象に残ったのは、表現規制が授業テーマだったにも関わらず、先生方が皆一様に、規制を前提にして創作論を語られたのではなく、むしろ、形なき自らの表現欲やエネルギーを、執筆する中、漫画作品（主に代表作）の上に、文字通り吐き出した過去を語られたという事実だった。

「漫画家ってのは、今あるもの、既製品・レディーメイドに満足できない人種なんだと、分かって貰えたと思います。恋愛と一緒で、最初から規制の中で上手く立ち回ろうなんてのは十年早い。まずは全部毒を吐いてみなさい。それで痛い目見ようが、自分自身の毒を吐き出せた作品が、結果として良い作品になるんです」（要約）志賀先生は、迫力ある口調でおっしゃった。

　私は、例によりイカロスの神話を始め、人力飛行に携わった、東西の先人達の歴史を回想していた。イカロスとライト兄弟。漫画家の先生方に聞いたなら、彼らはどちらの生き方を支持されるだろうか。
<img class="imag" alt="doku.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/doku.jpg" width="243" height="115" border="0" />

　私には確信があった。先生方は、イカロスの方法論を支持されるに違いない。何故なら、ライト兄弟の成した偉業は、例え彼らが成し得なくても、やがては科学の発達と共に、必然的に後世の誰かが成した筈だからである。

　一方、イカロスのエピソードが、痛ましい悲劇として今日まで伝えられると同時に、我々がその姿に、何処か詩的な、表現者の姿を投影するのは、蝋の羽根をまとった彼の姿に、美的シンパシーを感じているからに他ならない。イカロスの生涯は、航空力学史の観点からすれば無駄そのものであり、故に美しく儚い。

　彼は何故、大気の流れに身を任せ、空へと舞い上がらなければならなかったのか。イカロスが、死をも予期せぬ、単なる軽薄者だったとは思えない。イカロスは、太陽を単なる信仰の対象として見ることに飽き足りなかったのではないか。己が血のざわめきに従い、彼は、禁断であった太陽の実存へと手を伸ばした。そして、イカロスの太陽への飛翔は、死によって幕を閉じられる。だが、我ら現代人は、過去から受け継がれてきた価値観を喪失した後も、しぶとく生き、描（書）き続けなければならない。


 <img class="photol" alt="shigasensei2.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/shigasensei2.jpg" width="280" height="210" border="0" />

「私にしかできない、私のやるべき仕事がある。もし、私がストリッパーになるのなら、公序良俗に反するストリッパーになりたい。自分の逮捕歴を誇れるようなね」血が躍らなければ、表現者の道などには足を踏み入れなかった、と志賀先生は言われた。
　
　血の流れは、空気の流れに似ている、と感じる。絶えず流転し、一定の法則を見い出されることを嫌う。だが、敢えてそこに法則性を当てはめるとしたら、移動し、漂泊するゆえの、決して永遠なる具象は現存しないという、万物の豊かなる柔軟と、不確実性がうかがえる。自らの血の流れに耳を傾け、そのまつろわざる主張を汲み取り、一見矛盾ではあるが、それをある形式として具象化することに成功した者こそが、表現者と呼ばれるに値する。

　大国の正義も、愛も、死も、リアリティも芸術も、もはや空虚な詭弁にしか聞こえない現実が、目の前に横たわっている。現代のイカロスは、蝋の羽根が溶け、地上に墜落しても尚、死ぬことすら許されない。自らの手で、かけがえのない価値を獲得し、構築していく時代を、我々は生きている。 

<div class=" author">【栗原隆浩】</div>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>森山大道その２ ～写真とは光の化石である～</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://report.bunka-kaigi.com/archives/2004/07/post_29.html" />
   <id>tag:bungei.chicappa.jp,2004:/report//2.176</id>
   
   <published>2004-07-08T06:01:04Z</published>
   <updated>2007-05-24T05:52:15Z</updated>
   
   <summary> 前回に引き続き、写真家森山大道の仕事を紹介する。飯沢先生が持参して来られたビデ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="文芸特殊研究1" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://report.bunka-kaigi.com/">
      <![CDATA[<img class="photor" alt="iizawa200.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/iizawa200.jpg" width="200" height="194" border="0" />
前回に引き続き、写真家森山大道の仕事を紹介する。飯沢先生が持参して来られたビデオ「ＮＨＫ　新日曜美術館　写真とは光と時の化石である／写真家・森山大道」（2003年３月９日放映）を観た。この授業は受講者が多く、教室は満席状態である。写真に詳しい学生もそうでない学生も、皆熱心にビデオを観ていた。

　森山を追いかけたドキュメンタリー作品は、ほかに「≒森山大道」（藤井健次郎監督2002年　ＤＶＤ）がある。こちらも興味深い。　

　本題に入る前にひとつ。前回は飯沢先生の講義をもとに森山について長々と書いてしまった。先生の話術の巧みさもあり、私なりに森山の人となりや写真を勝手にイメージしていた。しかし、百聞は一見にしかず。実際に彼の立ち振る舞いや作品を目の当たりにし、私の中のイメージは少々変更を余儀なくされたことを付け加えておく。]]>
      <![CDATA[　放映当時、島根県立美術館で「光の狩人」と題する森山の回顧展が開催中であった。番組は、森山の初期の代表作である犬の写真で始まる。まるで狼のように見える犬の、その眼光の鋭さは、ひたすら疾走を続けていた若き日の森山を反映しているようだった。

　<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/490147703X/alternative-22/ref=nosim" target="_blank"><img class="imag" src="http://rcm-images.amazon.com/images/P/490147703X.09.MZZZZZZZ.jpg" alt="新宿" border="0"></a>斬新な手法でそれまでの写真表現のあり方を拒否し、表現者としての自分をとことんまで追いつめた。何が写っているのかわからない写真ばかりを集めた『写真よさようなら』を出したあと「写真とは何かがわからなくなってしまった」状態が十年間続いた。一輪のシャクヤクの花にカメラを向けたことがきっかけで、『光と影』という写真集をつくった。ここで「写真とは光の化石だ」という結論を見出した森山は、さらに十年後『新宿』というパワフルな写真集でその力を世に知らしめる。その経緯が、番組でわかりやすく語られていた。


　一人の男が新宿の街を歩く。カメラは彼の後ろ姿を追いかけていく。男の足取りは速すぎも遅すぎもせず、あたかも街の速度と一体化しているようである。コートの裾を翻しながら、狭い路地や寂れたビル街を風のようにすり抜けていく。ふいにその歩みが、風俗店の看板や映画のポスターの前で止まる。男はコンパクトカメラをおもむろに取り出す。こうしていくつもの風景が、真空パックのように素早く森山のカメラにおさめられていく。

　「写真家は写真を撮っているときが一番カッコイイっていいますが、森山さんも非常に颯爽としているでしょう。とても60を超えているようには見えませんね」飯沢先生の言葉に深く頷く。そう、わたしはもっとお爺さんの写真家を想像していたのだ。神経質そうで、ちょっと変人ぽいお爺さん。だが実際の森山は、とてつもなくカッコイイ初老の男性だった。穏和な目が、シャッターを押す瞬間に強い光を放つ。被写体と対峙する瞬間、森山の全身に緊張が走る。背中がぴんと張り、その場だけ空気が凍結されたように動きを止める。そしてシャッターを押した直後にふわりと緩む、その口元が印象に残った。

　カメラを持って街を歩いている時は「目が先に行く」のだという。「全身がレーダーになって、街の空気と感応する。ポスターでも何でも、チカッと感じるものがあればそれを撮る」のだと。森山は思慮深く言葉を選びつつ、淡々と語る。無口ではないのにもの静かな印象を与えるのは、落ち着いた口調のせいだろう。

<img class="photor" alt="iizawa_talking.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/iizawa_talking.jpg" width="299" height="201" border="0" />
　合間に荒木氏と飯沢先生のインタビューがあり、森山作品についてそれぞれ思うところを語られていた。荒木氏は、自ら天才の名を欲しいままにしているにもかかわらず、初期の森山作品を見て「嫉妬した」という。『センチメンタルな旅』で私写真という方法論を打ち立てたが、もしかしてそれを初めにやったのは自分ではなく森山だったのかもしれない、と懐述したあと、森山の写真は「光の中に闇を感じ、闇の中に光を感じる。光と影が情交しているんだ。あと、みんな光と影のコントラストが良いっていうけど、一番おもしろいのは灰色の部分なんだよね」と荒木氏らしいコメントを寄せていた。

　飯沢先生は、森山の粒子の粗いモノクロ写真は「生まれたばかりの風景の記憶」ではないかと仰っている。輪郭がぼやけた、しかし妙になまなましく迫ってくる風景は、生まれたばかりの赤ん坊の視界に写った世界であり、閉じこめられた記憶の底から浮かび上がる破片のようでもある。

　記憶といえば、暗室の中で作業する森山の姿が登場する。「普通、写真家は暗室の作業を見せたがらないものです。森山さんはこだわってないですね。それは彼の自信の表れでもあるのでしょうが」と、前置きをしたうえで、飯沢先生は暗室の魅力を生き生きと語ってくださり、暗室作業が記憶とどう結びついているかを話された。

　デジタルカメラが普及し、暗室をもたない写真家も増えているが、暗室の、特にモノクロームの作業には独特の魅力がある。森山はただ写っているとおりに現像する方法はとらない。明暗のコントラストや粒子の粗さをかなり調整、操作している。作業はすべて暗室で行われる。

　印画紙の上に、じわじわと被写体の輪郭が浮かび上がる。ほの暗い部屋で、現像液の匂いに包まれながらその過程を見つめる作業は、たしかに朧な記憶をたぐり寄せてはっきりさせるという脳の働きと似たところがある。ゆえに、暗室の中で写真家はさまざまな記憶と感応する。記憶のエッセンスが暗室の中で写真に付与されるといってもいいだろう。写真は現実の世界と、さらに記憶の世界が織り込まれている。それは写真家の個人的な記憶に限らない。撮影したその場所や人や物に潜んでいた記憶が、写真家の記憶と感応することによって印画紙の上に滲み出る、ということでもある。
　「一枚の写真は光の化石だ」というのが今の森山のフレーズである。鉱物だけれど、ただの古びた物体ではない。フレームのなかに生命が宿っている。生命は見る物の心を揺さぶる。ある時間ある空間に存在した光、その光の化石は過去を思い起こさせるだけでなく、未来までも予感させるのだ。

　写真を撮るという行為は、「例えて言えば、ジグゾーパズルを作る感覚」という。パズルはばらばらに細分化されている。同じように自分も世界を細分化している。一片一片は複写に過ぎなくても、完成には一片たりとも欠かせない。自分は日々その大事な断片を収拾しつづけているのだ、と。

　<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022572787/alternative-22/ref=nosim" target="_blank"><img class="imag" src="http://rcm-images.amazon.com/images/P/4022572787.09.MZZZZZZZ.jpg" alt="犬の記憶終章" border="0"></a>
『新宿』は600ページという量感からしてまさに、パズルの断片を集めた写真集といえるだろう。ただかき集めただけではない。記憶と感応して再構成されたもうひとつの新宿なのだ。その分厚い写真集をめくっていけば、都市という巨大な生命体の力に圧倒されるだろう。

　「街の中にも自分の中にも、見知らぬものがたくさん潜んでいる。それを見つけていくことが写真を撮るということじゃないかな」。

　全身をアンテナにし、その場その場の空気と感応しあうことでシャッターを押し続ける写真家は、ゆえに外界に反応できなくなったらお終いという宿命を背負っているのかもしれない。だが心配は無用だ。十年のスランプを経て蘇った森山は、揺るぎない自信を得た。光の化石の材料を求めて、彼は今も街を歩き続けている。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<div class=" author">【寄稿者　菊地】</div>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>森山大道　～原記憶の不安～</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://report.bunka-kaigi.com/archives/2004/07/post_28.html" />
   <id>tag:bungei.chicappa.jp,2004:/report//2.175</id>
   
   <published>2004-07-02T01:23:58Z</published>
   <updated>2007-05-24T05:53:13Z</updated>
   
   <summary> 今回は日本を代表する写真家の一人、森山大道である。本日は、飯沢先生による講義。...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="文芸特殊研究1" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://report.bunka-kaigi.com/">
      <![CDATA[<img class="photol" alt="moriyama.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images//moriyama.jpg" width="267" height="230" border="0" />
今回は日本を代表する写真家の一人、<a href="http://www.moriyamadaido.com/">森山大道</a>である。本日は、飯沢先生による講義。次回は作品のスライド上映を行う。

　本名は「ひろみち」と読むらしい。少し変わった名前は、禅の「大道無門」という文句に由来する。森山の生い立ちもまた、アーティストに相応しく少々異彩を放っている。

1938年、大阪府池田町生まれ。父親の仕事の都合により、中学を卒業するまで各地を点々とする不安定な生活が続いた。少年時代の居場所が定まらない不安感、宙づりの感覚は、彼の感受性にしっかり刻み込まれ、のちに写真家森山大道の核となっていく。もう一つ、森山の作風を決定づけたと思われる要因がある。双子の兄の存在（現実には不在）である。大道には一道という双子の兄がいたのだが、生まれてすぐ亡くなったという。飯沢先生によると、双子の片割れの写真家というのは案外多いそうだ。例えば土田ヒロミ。彼は妻の横に双子の兄を置き、兄の妻の横に自分を置くという、双子ならではのユニークな作品を発表したことで知られている。土田の作品には、もう一人の自分が実在することの自己存在の揺らぎや、その不安を茶化すユーモアが感じられる。それは双子特有のメンタリティというものかもしれない。「森山の作品にも、失われた分身を求めているような感じがあります。ホルマリン漬けの双子の胎児を撮影した写真は有名ですね」と飯沢先生。死に別れた片割れの影は、生き残った者の内部に少なからぬ影響を及ぼしているのだろうか。]]>
      <![CDATA[<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4787271261/alternative-22/ref=nosim" target="_blank"><img class="imagr" src="http://rcm-images.amazon.com/images/P/4787271261.09.MZZZZZZZ.jpg" alt="過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい" border="0"></a>京都の中学を卒業し、高校に入るがまもなく中退、大阪市立工芸高校に進学しグラフィックデザインを習得する。カレンダーのデザインなどを手がけ、十七歳で早々とグラフィックデザイナーとして自活。二十二歳で、関西の写真界の大家である岩宮武二スタジオの門を叩く。グラフィックデザインという机上の仕事に飽き足らなくなっていた大森は、ここで写真の魅力に取り憑かれることになる。

当時、同スタジオには井上青龍がいた。井上といえば、ドヤ街に住む日雇い労働者の日常を撮った写真で頭角を現した気骨の写真家である。森山はおおいに影響を受け、自分も路上に出てスナップを撮り始める。さらに一冊の写真集との出逢いが、彼の方法論を完成に導いていく。ウィリアム・クラインの『ニューヨーク』である。

『ニューヨーク』は、「アレ」「ブレ」「ボケ」という反写真的手法の集大成というべき作品であった。ページを繰れども何が映っているのか判然としない写真ばかり。動く子供や出会い頭の人を反射的に撮る。視覚のおもむくままに手当たり次第に写し取る。そんなふうにしてできた写真集は、ニューヨークという街の混沌とダイナミズムを見事に体現していた。クラインはその後『ローマ』『モスクワ』『東京』と都市の写真集をたてつづけに発表する。「都市四部作」と呼ばれるそれらは、当時の知識人やアーティストに多大な影響を与え、「写真による都市論」というジャンルを形成していく。森山はクラインの反写真的手法を踏襲しつつ、独自の方法を模索していた。


大阪を出る決意を固め、1961年に上京。「ＶＩＶＯ」という６人の若手前衛写真家が結成したグループのアシスタントにしてもらうつもりだったが、グループはすでに解散していた。ちなみに「ＶＩＶＯ」はエスペラント語で「生命」の意。当時の写真界を支配していた「事実をそのまま伝える写真」（ドキュメンタリー、報道写真など）に異議を唱え、撮る側の主観的視点を重視し、抽象的な写真のあり方を主張した。革新派のグループであった。森山は、「ＶＩＶＯ」結成メンバーの一人である細江英公のスタジオで職を得、三年間助手を勤めた。細江はこのとき三島由紀夫の『薔薇刑』という写真集を製作中で、暗室で仕上がりを細かく操作する技巧的な写真が多かった。森山はここで暗室のテクニックを磨く。

1965年に独立するが、なかなか仕事が来ない。『カメラ毎日』という雑誌に自作を持ち込んだところ、凄腕編集者としてその名を轟かせていた山岸章二の目にとまり、８月号に９ページにわたって掲載される。「ヨコスカ」と題されたそのシリーズは２年後「にっぽん劇場」シリーズに衣替えし、1968年『にっぽん劇場写真帖』（室町書房）として出版される。この写真集が、写真家森山大道の本格的なデビューを飾った。

ラジカル路線を突き進む森山は、中平卓馬や高梨豊らと1968年同人誌『プロヴォーグ』に参加する。彼らはこれまでの写真表現のあり方を根底から覆すような、反写真的手法を駆使した作品を発表した。

森山の作風について、飯沢先生は「普段忘れている記憶のなかにあるものを刺激する。たとえば小さい頃、お母さんがなかなか家に帰ってこなくて不安でしようがなくなった感じ、よるべなさといいますか、誰もが覚えがあるでしょう。彼の写真を見るとその感覚が引き起こされるんです。我々の原記憶に潜んでいる不安や恐怖といったものをね」ブレやボケではっきりと映っていないため、パッと見ただけでは何が写っているのか判らない。判らないということは、ただでさえ不安をかき立て、恐怖を生む。「意味づけを拒否しているんです。普通の写真は綺麗な花とかかわいい動物とか、意味づけがあって写している。だから見る方も安心して見られる。でも意味づけを拒否した写真はどう見ていいのかわからないから不安になってしまうんです。」

このような作風は、独自の方法論に支えられている。まず、ノーファインダー撮影。ファインダーを覗かずに、反射的にシャッターだけ押して撮影する方法である。ファインダーでピントを合わせたりしていないのだから、当然写真にはブレやボケが頻繁に起こる。「目で見た世界は、撮ろうという時点で既に見た人によって秩序づけられているわけです。ノーファインダーは秩序づけられた世界に対する反抗の表れでもあるし、そうやって写ったものは写真家のコントロールを超えているわけでしょう。それをねらっているんです。こう見えるはずだという現実を超えた世界が写真に現れることがあるんです」

もう一つは、複写という、街のポスターや看板、道に落ちた新聞の誌面写真や雑誌のグラビア記事などをそのまま写す方法である。写真を写真に撮る。それはすなわち、他人が創ったイメージの世界と現実の世界を等価と見なす行為だ。我々の生きている世界では既に、現実と映像世界（幻影）の区別が曖昧になっている。森山はそんな状況を、複写という方法で表現しているといえる。『アサヒカメラ』（1969）誌上で連載された「アクシデント」というシリーズに登場して以来、現在に至るまで、複写は森山写真のトレードマークといわれるほど頻繁に取り入れられている。

<img class="photor" alt="moriyama2.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/moriyama2.jpg" width="350" height="196" border="0" /> かくして1972年『写真よさようなら』（写真評論社）が出版される。これはラジカルの極みというか、100％実験的な写真集である。写真表現の限界まで行きたい、という意欲と、それを実際にやり遂げた行動力は賞賛に値する。しかし当時は一部を除いてまったく評価されなかった。後に森山本人も「徒労感が残った」とこぼしている。時代に先走りすぎたのか、試みは空回りしてしまったようだ。しかもこの時点でやるべき事はすべてやってしまった、行き着くところまで行ってしまったという壁にぶち当たり、先に進めなくなってしまった。

森山はスランプに陥った。睡眠薬を常用し、極端に痩せ、家にこもりがちになった。そんな状態が十年近く続いた。方法論的に行き詰まり、カメラを手にすることもなくなった。。

袋小路から脱するきっかけは、1981年に刊行された『写真時代』（白夜書房）という雑誌であった。創刊号で、森山のインタビュー企画が組まれた。彼が久々に手にしたカメラで写し撮ったのは、シャクヤクの花であった。タイトルは「光と影」。そこにある光と影を記憶する、写真は「光の化石」だ。何気ない花をありのままに写すという行為が、森山に再び写真の力を信じさせたのである。

『光と影』（冬樹社）は翌年写真集として出版された。そして森山は都市の路上に帰ってきた。1993年から1997年にかけてhystericから出版された三冊の写真集（『DAIDO　hysteric No..4』『DAIDO　hysteric No.6』『OSAKA  DAIDO　hysteric No.8』）では、一冊ごとに被写体が物から人へ、人から都市へと移行していく。特に『OSAKA  DAIDO　hysteric No.8』は大阪という都市の猥雑な空気とエネルギーを切り取った力作である。

<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/462207088X/alternative-22/ref=nosim" target="_blank"><img class="imag" src="http://rcm-images.amazon.com/images/P/462207088X.09.MZZZZZZZ.jpg" alt="眼から眼へ" border="0"></a> 
この路線は引き継がれ、2002年『新宿』（月曜社）が発表される。ページ数にして600頁、掲載写真は500枚にもなる。この圧倒的な量感、膨大な枚数は、新宿という都市の多面性を伝えるために必要だったという。「たしかに都市写真というのは、ある程度枚数が必要です。一枚の写真でその土地のすべてを表現することは出来ませんから」と飯沢先生は言うが、「質より量といっているのではなく、被写体の性質によるものです」とも。

ごく最近の活動としては、2003年10月にパリで開催された個展がある。カルティエ現代美術財団によって開かれた「ＤＡＩＤＯ　ＭＯＲＩＹＡＭＡ」展を満喫した飯沢先生は、最近の著作『眼から眼へ』（みすず書房）の冒頭で、その感想を詳しく述べている。

「ライブ会場に巻き込まれたようなショックでした。まだまだ彼は現役だと実感させられましたね」

<div class=" author">【寄稿者　菊地】</div>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>渡辺やよい氏「到達感なきエロス」</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://report.bunka-kaigi.com/archives/2004/06/post_27.html" />
   <id>tag:bungei.chicappa.jp,2004:/report//2.174</id>
   
   <published>2004-06-26T20:57:46Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:24:03Z</updated>
   
   <summary> 本年度４月より、日芸所沢校舎にて開講されている文芸特別講義１、前期講師陣の取り...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="文芸特別講義1" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://report.bunka-kaigi.com/">
      <![CDATA[<img class="photor" alt="yayoi250.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/yayoi250.jpg" width="200" height="266" border="0" />
本年度４月より、日芸所沢校舎にて開講されている文芸特別講義１、前期講師陣の取りを務められるのは、レディースコミック（通称レディコミ）誌上でご活躍される女流エロ漫画家・渡辺やよい先生である。渡辺先生は、その黎明期からレディコミを牽引されてきた、レディコミ界の生き証人でもある。
　
「レディコミ」の代名詞は、ハードなＳＥＸ描写を主体とした、エロ漫画にある。レディコミの成り立ちは、２０年以上昔に遡る。当時、従来の少女漫画に飽きた女性読者層（主に２０代後半以上）に、雑誌が、より刺激的な作品を提供し始めたのが、成立の由来だという。近年では、レディコミというジャンルの成熟と、条例によるエロ描写規制に伴い、エロ漫画ではないレディコミ作品も登場する様になった。
　
　]]>
      <![CDATA[<img class="photol" alt="ladycomi200.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/ladycomi200.jpg" width="200" height="267" border="0" />
渡辺先生は、レディコミの仕事に関わる以前から、自作漫画中に、ＳＥＸや妊娠といった、漫画のセオリーではタブー視される傾向にあるモチーフを、無意識の内に描いてきたという。

「私が最も表現したいものは、男女の性であり、エロ漫画。でも、幾ら描いても性に終わりは見えない。描けば描くほど、その先を見たくなる。到達感を見出せないんです」

　１９８０年代当時、立ち現れ始めたレディコミというジャンルに出会い、編集者に執筆を依頼された時、先生は、これぞ私の求めていた芸術表現の方法であると確信されたという。

「私の描きたいものが、ことごとくエロである根拠は何だろう？・・それを探っていけば、幼い頃の体験に遡る。私の実家は客商売をやっており、家に様々なお客が来ました。幼い私はおのずから、彼らと接するようになっていた」

　先生は、自身がここまで「性」というものに惹かれる根拠が、まだ幼なかった頃、店に訪れた男性客に見せられた、男女の営みの様々な資料にあったことを告白された。声を振り絞り、切々と語られる先生の言葉は、私にとって重く、貴重なものだった。

「女はスケベなんです。私の漫画の主な購買層でもある、女性の読者にとっても、鬱積した妄想を開放し発散させる場として、エロ漫画としてのレディコミは、まだまだ必要とされると思う。それを描いてる私自身は、最近やっと、過去の体験を人に喋れるようになった」
　
　表現する喜びは無論ある、しかし、むしろ自分は、何かに復讐する様に突き動かされるままエロ漫画を描いている、と先生はおっしゃった。それは、幼少の身で、性の現実を直視させられてしまった過去への、驚愕と絶望の嘆きにも似ている。十歳にも満たなかった先生は、自覚のないまま、眼前に広がる男女の営みの中に、太古より不変の、大自然の意思を読み取ってしまったのだ。そこには、幻想や虚構など、もはや介入する余地はない。それでも尚、人間は、幻想を求めねば生きてはゆけないと言うのなら、敢えて、生々しい現実のむこう側に、それらの断片を掻き集めるより他はない。
　
<img class="photor" alt="yayoi200.jpg" src="http://www.akuzawa.net/TA/archives/yayoi200.jpg" width="200" height="150" border="0" />
　幼いながら、既に性の現実を手に入れてしまった渡辺先生は、持つことのできなかった幻想を獲得しようと、エロ漫画を描き続ける以外なかったのではないか。性の幻想への逃げ道を失った渡辺先生は、何かを自らの手で表現しようと試みた時点で、消し去りたかった過去の現実を直視すりより他はなくなったのだ。

　誰の内面にも、持ち主から見放され、ただ静かに発酵してゆくだけの過去が存在している。先生は、失われた幻想を希求する内なる声に、一途に耳を傾け続けたからこそ、今日まで創作を続けることができたのではないか。ふくよかな笑みを湛える渡辺先生の奥底には、今だ獲得することのできない、性の幻想に対する深い渇望が広がっていた。

 <div class=" author">【栗原隆浩】</div>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>中平卓馬　～記憶喪失からの再生～</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://report.bunka-kaigi.com/archives/2004/06/post_26.html" />
   <id>tag:bungei.chicappa.jp,2004:/report//2.173</id>
   
   <published>2004-06-24T07:57:16Z</published>
   <updated>2007-05-24T05:54:23Z</updated>
   
   <summary>　今回は、中平卓馬という写真家と、その作品について、スライド上映をまじえて講義が...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="文芸特殊研究1" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://report.bunka-kaigi.com/">
      <![CDATA[<a href="http://www.art-museum.city.yokohama.jp/calendar/leaf2003/ex03a04/"><img class="imag" alt="nakahira.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/nakahira.jpg" width="242" height="156" border="0" /></a>　今回は、中平卓馬という写真家と、その作品について、スライド上映をまじえて講義が行われた。
<a href="http://www.art-museum.city.yokohama.jp/calendar/leaf2003/ex03a04/">昨年の晩秋、横浜美術館において開催された中平の回顧展</a>は記憶に新しい。タイトルは「原点復帰―横浜」であった。

中平は1938年、東京の原宿に生まれた。少年時代は神奈川県（横浜を含む）と原宿を往復するような生活を送った。「原点復帰」というタイトルは、文字どおり横浜が少年時代を過ごした土地であるという意味と、そしてもう一つ、記憶喪失という事故により消えかけた写真家の、新たなスタートを宣言しているかのようだ。]]>
      <![CDATA[ 中平は東京外国語大学でスペイン語を専攻した。安保闘争のうねりをくぐり抜け、卒業後『現代の眼』という総合雑誌の出版に携わる。当時の新左翼系に区分されるこの雑誌には、東松照明の写真『I am a king』シリーズなど、政治的に不穏な時代を象徴する作品が連載された。東松の作品に影響を受けた中平は、文章による表現からしだいに写真のほうに惹かれていく。実際にカメラを手にしたことでそれは決定的になる。『I am a king』の最終回では、柚木明というペンネームで自作を発表し、写真家としてのデビューを果たした。デビュー作はマッチ箱のような建物が並んでいる風景を切り取ったモノクロ写真で、金属的なにおいのクールな印象である。

<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4887521367/alternative-22/ref=nosim" target="_blank"><img class="imag" src="http://rcm-images.amazon.com/images/P/4887521367.09.MZZZZZZZ.jpg" alt="中平卓馬の写真論" border="0"></a>1965年からフリーの写真家となった中平は、多木浩二（評論）、高梨豊（写真家）、岡田隆彦（詩人、評論家）とともに『プロヴォーグ』なる同人誌を立ちあげた。ここで中平らは、映像としてのラジカルな表現を提唱した。いわゆる「アレ」「ブレ」「ボケ」というそれまで否定されてきた写真の技法を積極的に取り入れたのである。

『プロヴォーグ』は３号を世に送り出して力尽きたが、中平はまもなく『来るべき言葉のために』（1970、風土社）という写真集を発表する。事物を断片的に切り取った粒子の粗い写真は、パッと見ただけでは何を写したのか分からないものもあり、ページをめくると何が出てくるのか分からないスリルもある。物質化された都市の孤独が浮かび上がってくるような、人を物として見ているような無機質さ。「今見てもなかなかカッコイイんですよ」と飯沢先生は目を細める。


スタイリッシュに構成されたこの写真集は、都市化していく時代の気配のなかに中平自身の気分が多分に投影されている「私写真」である。「私写真」とは、被写体に「私」の肉体を投影する、つまり「私」の思想や身体性が「私」の見た風景や事物に浸透しており、それが写真を見た人に伝わるような表現方法である。被写体にたっぷりと私情を託すこの方法を、中平は、「現実の世界を私物化し、ポエジーの世界に逃げこんでいる」と批判し、のちに全否定することになる。

中平が自らの方法論を翻した背景には、時代の変容があった。政治の時代は終焉し、そのかわりに都市を覆っていたのは醒めた「しらけ」の空気だった。「ブレ」「ボケ」の手法もポピュラーになり、広告に使われるなど消費の一端に過ぎなくなっていく、そんな情況に耐えられなかったのだろう。1973年『なぜ植物図鑑か』（晶文社）という変わったタイトルの評論集を出した中平は、プロヴォーグ時代から一変し、図鑑としての写真に固執しはじめる。

「写真は想像でもなく記憶でもなくドキュメントである」と断じ、情緒的要素を排除した「事物が事物であることを明確化する」だけの写真は、「あらゆるものの羅列、並置」である植物図鑑を目指しているといえる。中平は言う、「悲しそうな猫の図鑑というものは存在しない」。つまり、悲しそうな猫は撮る側の感情移入によって悲しそうに見えるだけなのだ。感情移入を受けた猫は悲しそうな猫として写真の中に存在する。それを見た人は悲しそうな猫だと思う。しかし悲しいという感情は猫にあるのではない、撮る人間の感情が猫に投影されただけなのだ。それが私写真であり、現実の世界を私物化する行為なのである。中平はこれを一蹴した。自分の写真を特徴づけていた「情緒的な私」の要素を抹殺しようとし、自らを追い込んでいったのである。
<img class="photor" alt="nakahi.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/nakahi.jpg" width="250" height="188" border="0" />
　それは自己否定の試みでもあった。今でもこの試みに取り憑かれた写真家は少なくない。飯沢先生いわく「中平の呪縛」である。私の創るものから「私」を排除することは、情緒的自己の存在を否定することでもある。これは苦しい。本人もそうとう葛藤があったらしく、それまでの写真を焼き捨てる場面を篠山紀信に撮影させたりしている（『決闘写真論』1977　朝日新聞社）。さらに同年9月、決定的な事件が起こる。急性アルコール中毒で倒れた中平は、目覚めたときに記憶を失っていたのである。

　飯沢先生は、その後の彼の軌跡をこんなふうにおっしゃっていた。「かつて詩人か写真家かで迷ったほど言葉を構築する才能があった。記憶喪失になってからは、以前ほど明瞭な言葉が出なくなりました。で、回復の過程で写真を撮り続けた。写真が回復の手助けをしたのかも知れない。全身小説家というのがいたけど、彼はまさに全身写真家です。生活そのものが写真になっている」

　1983年に出た『新たなる凝視』（晶文社）で写真家としての再デビューを果たすが、この時点ではまだ中平のスタイルは一貫していない。1989年『Adieu a X』（河出書房新社）にもいくらか逡巡がある。2002年『hyｓteric ｓix Nakahira Takuma』で現在の表現スタイルが決まったようである。

　齢七十を迎えんとする今の中平が撮る写真とは？　飯沢先生はそこに映しだされた風景や事物を、「赤ん坊が初めて見る世界」と表現する。被写体はありふれたもので、猫や鳥などの小動物、路上生活者の寝姿、植物が多い。凝った構図も奇をてらった手法もない。「そこにあるものをそこにあるように写しているだけ」である。しかし中平の視線は被写体に真っ直ぐ向かっており、いささかのぶれもない。一切の不純物を排除し、焦点を当てた事物のみを、ここぞという瞬間にすっぱりと切り取りおさめる。その純粋で強いまなざしは、一枚の写真に驚くほどの広がりを与えている。

スライドの画面が、鮮やかな色彩に溢れた写真を映しだしていく。猫の写真があった。「ただの猫ですね」飯沢先生は言う。「猫としかいいようがない猫だ。」間違っても悲しそうには見えない、だが細部までみずみずしい生命力の漲りを感じさせる。「事物の輝くばかりの表層」が中平の写真にはきっちり詰まっているのだ。 <div class=" author">【寄稿者　菊地】</div>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>御茶漬海苔氏「コミケ、プロの視点から」</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://report.bunka-kaigi.com/archives/2004/06/post_25.html" />
   <id>tag:bungei.chicappa.jp,2004:/report//2.172</id>
   
   <published>2004-06-13T22:49:49Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:25:16Z</updated>
   
   <summary> 梅雨の中休み、初夏の風を漂わせる去る６月１４日。毎週、各ジャンルで活躍される漫...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="文芸特別講義1" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://report.bunka-kaigi.com/">
      <![CDATA[<img class="photor" alt="otyadukenori250.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/otyadukenori250.jpg" width="250" height="188" border="0" />
梅雨の中休み、初夏の風を漂わせる去る６月１４日。毎週、各ジャンルで活躍される漫画家の先生を講師としてお迎えする文芸特別講座も、早いもので前期後半に突入した。今回は、怪奇・サスペンス漫画の執筆を始め、近年は自身が企画された実写ホラービデオ作品の監督も務められる漫画家、御茶漬海苔先生がいらっしゃった。
　
　白く長い髭を蓄えられた御茶漬先生は、現在プロ（商業誌）の漫画家でありながら、修行時代に経験された同人誌作家としての仕事を、今も尚、継続されているという。中でも、アマチュア漫画家の晴れの舞台とも言われる、コミックマーケット（通称コミケ＝同人誌漫画の即売会）という催し物について、先生は今回深く言及された。]]>
      <![CDATA[<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4253129013/alternative-22/ref=nosim" target="_blank"><image class="imag" src="http://images-jp.amazon.com/images/P/4253129013.09.MZZZZZZZ.jpg" border="0"></a>「今の同人誌は、アニメや漫画のエロチックなパロディ作品が主流です。確かにパロディは、創作に不可欠な要素だと思う。ただ現状として、オリジナルなアイディアだけで勝負する作家は、全体的に減ってきています」
　
　同人誌という活動形態は、同人誌作家・サークルが、即売会にて客から代金を受け取り、作品を譲与している点で商業活動ではあるが、一般の書店に流通する商業誌とは全く異なる表現方法・活動様式が可能であると言える。私が興味深いのは、御茶漬先生が、同人誌を単なるプロ作家への通過点と見なさず、同人誌と言う表現媒体にのみ存在する長所を、現在も見い出している事にある。

「自分の描きたいものを描けているうちはまだいい。アマチュア漫画家の中で、ファンに支持され、生き残ってゆく作家はごく僅かです。僕は漫画を描いていく上で、作品が、読者の人生の糧にならなければ意味がないと考えています」（要約）
　
　大手と呼ばれる同人誌作家・サークルは、作品がパロディ・オマージュに由来するものでありながら、作家自身のカラーやスタンスを、作品中に明確に打ち出している。コミケは、表現欲に満ち溢れた若者の、感性と個我の表出の場、プロである先生自身の感性をも刺激する、アイディアの原石が埋もれた鉱山であると言える。同人誌作家時代を長く経験された御茶漬先生は、その事実を誰よりも熟知されているのではないだろうか。
<a href="http://hime-films.jp">　<img class="imagr" alt="hm.gif" src="http://bungei.chicappa.jp/images/hm.gif" width="169" height="273" border="0" /></a>

「コミケにいる人々を見ていると、毎回違った面白さがあり、面白いエピソードも山ほどある。商業誌の作家になろうがなるまいが関係ない。漫画家にゴールはないんです」

　成熟した芸術家の内部には、クリエイターと監督、両方の視点が共存しているという。若き表現者は、往々にして自己の内部に埋もれた“監督の視点”の存在に気付かず、幸いに気付いたとしても、それを軽視してしまう傾向にある。しかし、クリエイターの視点のみでは、往々にして自意識の袋小路に陥りやすい。プロフェッショナルとは、クリエイターの創り出した未完成品を、監督の立場から補い統括し、一個の完成品へと昇華させる為に必要な、冷静でしたたかな視点を備えた、武道で言う所の、
間合いの達人なのである。

 <div class=" author">【栗原隆浩】</div>

【参考URLs】

<a href="http://www5a.biglobe.ne.jp/~ochazuke/">御茶漬海苔の館</a>...御茶漬海苔氏公式ホーム・ページ

ホラーコミック界の巨匠御茶漬海苔の名作「姫」を原案に女性脚本化が競作、現代風にアレンジした1話約25分、前6話のショート・ムービー「姫」公式サイト： <a href="http://hime-films.jp">http://hime-films.jp</a>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>永井哲氏「あたりまえでさりげない存在を目指して」</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://report.bunka-kaigi.com/archives/2004/06/post_24.html" />
   <id>tag:bungei.chicappa.jp,2004:/report//2.171</id>
   
   <published>2004-06-06T21:33:53Z</published>
   <updated>2007-05-21T14:25:47Z</updated>
   
   <summary> 2004年6月7日の文芸特別講義は、現在関西で聾唖者団体の代表を務められる漫画...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="文芸特別講義1" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://report.bunka-kaigi.com/">
      <![CDATA[<img class="photol" alt="nagaiakira250.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/nagaiakira250.jpg" width="200" height="207" border="0" />
2004年6月7日の文芸特別講義は、現在関西で聾唖者団体の代表を務められる漫画家・永井哲（ながい　あきら）先生が教鞭をとられた。小学生の時、不慮の事故に纏わる手術をされた永井先生は、現在も聴覚を失われた状態にあり、今回は聾唖漫画家の立場から見た、漫画表現における障害者問題についての講義がなされた。
　
　自身も手塚治虫の大ファンであったという永井先生の口からは、表現と障害者の問題について、新鮮で且つ的確な見解がなされた。先生は、一般的な漫画やドラマに登場する障害者の設定の多くが、如何に的外れで誇張されているか、指摘された。]]>
      <![CDATA[<img class="imagr" alt="nagaimanga.jpg" src="http://bungei.chicappa.jp/images/nagaimanga.jpg" width="220" height="293" border="0" />
「ああいった設定の多くは、あくまでフィクションと考えて下さい。少なくとも僕は、ドラマや漫画のキャラクターの様に、読唇術の達人や超人にはなれない」先生は、始終にこやかな笑みを絶やさなかった。

　更に先生は、表現上の規制の多くは、障害者団体や人権擁護団体からのクレーム・検閲よりも、むしろ出版者側の、早計な自主規制による部分がほとんどだとも付け加えられた。その自主規制も、なまじ蔓延する障害者観に基づいた規制である為、古い作品を雑誌掲載当時のまま見ることすらできなくなっている現状があるという。

「一漫画ファン、一漫画家として、その現状が歯がゆいんです。僕は古い漫画も昔のままの表現で読みたい！」

　表現者が、漫画という虚構世界において、必ずしも正確な障害者像を提示する必要があるのか、一概には言えない部分がある。だが、世間に流布している表現作品によって、我々読者から、リアルな障害者観の発育を妨げる過程が現存しているのも事実である。作品を作る製作者の認識の甘さに加え、偏った見識に基づく自主規制という、二重の偏見構造がそこにあった。

　「臭い物には蓋」という消極的な発想は、永井先生にとっては不本意であるようだった。残念なことに、手塚や藤子といった古典漫画家の作品に、障害者に対するステレオタイプな考え方は現わされることが多いという。しかし、偏った認識を訂正する上で、本編にそのまま手を加えるのではなく、注釈文の掲載等による、書き手（或いは売り手）から読み手への、積極的な認識のフォローこそ、今後必要であるという見解を、先生は提示された。
　
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4759251235/alternative-22/ref=nosim" target="_blank"><image class="imag" src="http://images-jp.amazon.com/images/P/4759251235.09.MZZZZZZZ.jpg" border="0"></a>　表現作品の中において、障害を持つという状況が、まだまだ特別なシチュエーションであり、作者の作為的なストーリーテリングを免れない、鼻持ちならない演出だという感覚は、確かに前々から私の中に存在した。そして、永井先生の授業の締め括りのひとことが、私にその感覚を、確固たる認識に至らせるに及んだ。

「障害者が、主人公の友人であり、恋人であり、或いは背景に溶け込んだ通行人（無論、主人公であっても良いのだが）であるという、あたりまえでさりげない存在として、漫画の中に登場してくる状況こそ、僕の望むことです」

　誤解がないように言っておくが、個性のない人間など何処にも存在しない。これは、表現を志す誰もが直面する矛盾、自己の内面に抱え込んだコンプレックスと、自己顕示の狭間の、終わりなき戦いなのである。結論は、表現者ひとりひとりが見出してゆくより他はない。

　先生は、日芸に爽やかな笑顔を残された。 

 <div class=" author">【栗原隆浩】</div>]]>
   </content>
</entry>

</feed>

